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[C166]

教えを聞き、実行していけば、自分の罪悪を畏れるようになれると思うことが、驕慢ではないでしょうか。

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯

  • 2011-01-22 11:30
  • 雑草
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[C167] このような理解では

> 「自己の罪悪を問題にするな」という蓮如上人に反し「自己の罪悪を畏れなければならない」と説き、無条件の救いに反して「教えを聞いて実行しなければならないことがある」「自分の罪悪を畏れなければならない」と条件をつけてしまうとんでもない間違った教えを説いているのが親鸞会であると知っていただければ思います。

元会員の者です。
親鸞会にいた頃の私の理解はこんな感じでした。

「蓮如上人が『自己の罪悪を問題にするな』と言われたのは、
自己の罪悪に驚き、問題にしている人たちがいたから」

「しかし、自分はそこまで言っていない。悪を造りながら恐れていない」

「なぜかというと、善の実践が弱く、自己の罪悪に無自覚だから」

「なので、もっと善を実践し自己の罪悪に気づかなければ(恐れなければ)
ならない」

親鸞会の皆さん、こんな感じでないですか?

講師や会員がこういう理解を示してきた時、どう反論すればいいでしょうか?
  • 2011-01-22 21:55
  • 元会員
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[C168]

そもそも聞即信の「聞」とは成就文の「聞其名号」を宗祖が信巻に解説されたもので、名号法(仏願の生起本末)を疑い無く聞き受けているすがた(如実の聞)以外はないのですが、それを会長はあたかも一個の特殊な宗教体験かのように説くのが問題ですよね。
そんな「特殊体験」などないのに。

すでに衆生に呼びかけられつつある、先手の名号願力であるという前提で、それを如実に領受するか否かが、我がはからいをまじえた自力の聞(不如実の聞)と他力の聞(如実の聞)の違いなのに、
会長は「聴聞」という言葉を持ち出し、わざわざ「聴」と「聞」にわけて、「聞」を聴聞の座を重ねた先の特殊な出来事であるかのように解釈してしまっていますよね。

お軽同行が「きのう聞くのも今日また聞くも ぜひに来いとのおよび声」と、また一蓮院秀存師が「勅命は唯一声と思いしに 今日もくる日も 弥陀の呼び声」と喜ばれた事と真逆です。

表面的には阿弥陀仏の救いは只今の救いと説きながら、実際には只今の救いではないと否定してしまっているのが、会長の所説ですね。

  • 2011-01-22 23:22
  • Rudel
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[C169]

>雑草様

仰る通り驕慢だと思います。


>元会員様

私は、御文章の
・あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず
・わが身の罪のふかきことをばうちおきて
・ただわが身の罪のふかきには目をかけずして
・わが身の罪のふかきことをばうちすてて
・まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて
といった部分は、拝読していても認識にのっていませんでした。他の会員さんの中にも、元会員さんのように理解する人もいれば、私のように読み飛ばしてしまう人もいると思います。

講師や会員がこういう理解を示してきた時、どう反論すればいいでしょうか?

いろいろな言い方があるでしょうが、
「もっと善を実践し自己の罪悪に気づかなければ(恐れなければ)ならない」というならば、今は救われないということですか?
もしそうならば、「一念の救い」ではなく「多念の救い」ということになってしまいますよ。平生業成はウソですか?
などと聞き返してみるのはいかがでしょうか?

相手が疑問をもつようにもっていかないと、強固な親鸞会信心は崩れないと思います。

>Rudel様

コメントありがとうございました。
また記事で取り上げたいと思います。
  • 2011-01-24 19:50
  • いつもの元会員
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『顕真』1月号法友通信を読む

昨年の10月31日のテレビ座談会では、「弥陀の呼び声」が、いつ、どんな人に届くのかという話があったようです。今回は『顕真』1月号に掲載されている法友通信をテキストにして親鸞会教義の誤りを指摘します。

「水火の難に堕することを畏れざれ」という弥陀の呼び声の聞こえない理由がよく分かりました。地獄へ堕ちるのではなかろうか……と自分の罪悪を畏れている人にこそ届くのであって、そうでない者には聞こえないのです。
 では、どうすれば、悪を畏れる心が起きるのか。それは、教えを聞き、実行しなければならないと教えていただきました。
 救われた一念で本願に疑い晴れ、地獄一定の自己と極楽一定の自己が同時に知らされるのだと分かりました。(26、27頁より引用)


この人の感想から、弥陀の呼び声を聞くには「自己の罪悪に畏れる心がなければならない」と思いこまされてしまっていることが読み取れます。これは、親鸞会の会員さんのほとんどが持っている思いだと思います。私も会員時代そうでした。

しかし、この心は、まず「自分の罪悪を畏れなければならない」と、無条件の弥陀の救いに条件をつけ、救いを拒絶してしまっている心です。また、このような理解ですと、「自分の罪悪」だけに心が向き、私を間違いなく助けて下さる法は完全に抜け落ちてしまいます。

今述べたような親鸞会教義とは反対に、蓮如上人は、しばしば「自己の罪悪を問題にするな」と教えられています。そのように教えられた『御文章』をいくつか紹介します。引用したお言葉の赤字に注目してください。

そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。(御文章2帖目10通)

これによりて、この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。(御文章3帖目1通)

それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。(御文章3帖目5通)

さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。たとへば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらにその疑ふこころつゆほどももつべからず。(御文章5帖目14通)

当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。これさらに疑ふべからざるものなり。かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。(御文章5帖目18通)


「あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず」「わが身の罪のふかきことをばうちおきて」「ただわが身の罪のふかきには目をかけずして」「わが身の罪のふかきことをばうちすてて」「まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて」、弥陀におまかせしなさいと繰り返し教えられています。我が機、自己の罪悪に向くのではないのです。私を助けて下さる法、阿弥陀仏におまかせすることばかりを蓮如上人教えられているのです。

以上のことから、蓮如上人は、親鸞会で教えられていることとは真逆のことを教えられていることがお分かり頂けると思います。

『御文章』には「まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて」などと、自己の罪悪を問題にせよとも受け取れるお言葉もあるではないか?』という意見もあるでしょうから、それについても述べておきます。今、引用したお言葉は『御文章2帖目15通』に出てくるものです。前後を読みますと、

それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。

となります。ここは、「それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば」と始まり、「すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり」で結ばれている文章です。つまり、全体としては他力真実の信心のすがたを教えられた文章であり、他力の信心(二種深信)を
・「まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて」(機の深信)
・「そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて」(法の深信)
と機法二種に開いて教えられているのです。決して、自己の罪悪を畏れなければならないと教えられたものではありません、そして、2帖目15通は次のように続きます。

かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。

このような他力の信心をとるのには「さらになにのやうもいらず」と教えられているように、「私の側の造作は何も要しない」のです。「教えを聞き、実行しなければならない」と説くのは、私の側の造作を要すると教えていることですから、これまた蓮如上人と正反対です。

衆生の側の造作を何も要しない本願力回向の信心ですから、「こころえやすの他力の信心」と蓮如上人は仰せです。よって、無条件の救いといわれるのです。ところが、「教えを聞き、実行しなければならない」と自分の法から如来に向かっていって信心を得ようとすると、永久に信心をうることは出来ません。先手の法を拒絶することになるのです。私の側から進んでいって獲得できる信心ではないので、「難信」と親鸞聖人は教えられました。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(信文類)

先手の南無阿弥陀仏を計らいなく聞き受けている状態が信心です。先手の法(南無阿弥陀仏)を聞くところに、自力心は否定され、残るのは南無阿弥陀仏だけです。ゆえに、他力の信心といっても南無阿弥陀仏の六字の他にありません。「しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり」と蓮如上人は教えられています。

最近、繰り返し書いていることは、親鸞会では「仏願の生起・本末(南無阿弥陀仏の六字の謂)」が、正しく説かれていないということです。

そして、『信文類』に「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と教えられているように、仏願の生起本末を疑いなく聞き受けている状態が信心(二種深信)ですから、「仏願の生起・本末」を正しく説けない人は、「二種深信」も間違って説くことになります。「救われた一念で本願に疑い晴れ、地獄一定の自己と極楽一定の自己が同時に知らされる」という会員さんの感想も、高森会長の二種深信の誤解に基づく誤りですが、この件については多くのブログで取り上げられているので今回は省略します。

「自己の罪悪を問題にするな」という蓮如上人に反し「自己の罪悪を畏れなければならない」と説き、無条件の救いに反して「教えを聞いて実行しなければならないことがある」「自分の罪悪を畏れなければならない」と条件をつけてしまうとんでもない間違った教えを説いているのが親鸞会であると知っていただければ思います。
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教えを聞き、実行していけば、自分の罪悪を畏れるようになれると思うことが、驕慢ではないでしょうか。

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯

  • 2011-01-22 11:30
  • 雑草
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[C167] このような理解では

> 「自己の罪悪を問題にするな」という蓮如上人に反し「自己の罪悪を畏れなければならない」と説き、無条件の救いに反して「教えを聞いて実行しなければならないことがある」「自分の罪悪を畏れなければならない」と条件をつけてしまうとんでもない間違った教えを説いているのが親鸞会であると知っていただければ思います。

元会員の者です。
親鸞会にいた頃の私の理解はこんな感じでした。

「蓮如上人が『自己の罪悪を問題にするな』と言われたのは、
自己の罪悪に驚き、問題にしている人たちがいたから」

「しかし、自分はそこまで言っていない。悪を造りながら恐れていない」

「なぜかというと、善の実践が弱く、自己の罪悪に無自覚だから」

「なので、もっと善を実践し自己の罪悪に気づかなければ(恐れなければ)
ならない」

親鸞会の皆さん、こんな感じでないですか?

講師や会員がこういう理解を示してきた時、どう反論すればいいでしょうか?
  • 2011-01-22 21:55
  • 元会員
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[C168]

そもそも聞即信の「聞」とは成就文の「聞其名号」を宗祖が信巻に解説されたもので、名号法(仏願の生起本末)を疑い無く聞き受けているすがた(如実の聞)以外はないのですが、それを会長はあたかも一個の特殊な宗教体験かのように説くのが問題ですよね。
そんな「特殊体験」などないのに。

すでに衆生に呼びかけられつつある、先手の名号願力であるという前提で、それを如実に領受するか否かが、我がはからいをまじえた自力の聞(不如実の聞)と他力の聞(如実の聞)の違いなのに、
会長は「聴聞」という言葉を持ち出し、わざわざ「聴」と「聞」にわけて、「聞」を聴聞の座を重ねた先の特殊な出来事であるかのように解釈してしまっていますよね。

お軽同行が「きのう聞くのも今日また聞くも ぜひに来いとのおよび声」と、また一蓮院秀存師が「勅命は唯一声と思いしに 今日もくる日も 弥陀の呼び声」と喜ばれた事と真逆です。

表面的には阿弥陀仏の救いは只今の救いと説きながら、実際には只今の救いではないと否定してしまっているのが、会長の所説ですね。

  • 2011-01-22 23:22
  • Rudel
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[C169]

>雑草様

仰る通り驕慢だと思います。


>元会員様

私は、御文章の
・あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず
・わが身の罪のふかきことをばうちおきて
・ただわが身の罪のふかきには目をかけずして
・わが身の罪のふかきことをばうちすてて
・まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて
といった部分は、拝読していても認識にのっていませんでした。他の会員さんの中にも、元会員さんのように理解する人もいれば、私のように読み飛ばしてしまう人もいると思います。

講師や会員がこういう理解を示してきた時、どう反論すればいいでしょうか?

いろいろな言い方があるでしょうが、
「もっと善を実践し自己の罪悪に気づかなければ(恐れなければ)ならない」というならば、今は救われないということですか?
もしそうならば、「一念の救い」ではなく「多念の救い」ということになってしまいますよ。平生業成はウソですか?
などと聞き返してみるのはいかがでしょうか?

相手が疑問をもつようにもっていかないと、強固な親鸞会信心は崩れないと思います。

>Rudel様

コメントありがとうございました。
また記事で取り上げたいと思います。
  • 2011-01-24 19:50
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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