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「三願転入の道」は弥陀の最深の熟慮のご計画なのか?

『飛雲』批判をかわすためのその場凌ぎ教義では、先日の2000畳座談会の内容が取り上げられています。その中で、

19願と言っても18願を離れての19願はないから19願に対する疑いも18願に対する疑いと同じことである。
という感じだったように思います。「疑情=19願に対する疑い」とは言ってなかったと思いますよ。

いつものように“三願転入のみ教え”の話ですから、19願を18願に上手く?重ねつつ話してました。


と書かれていました。ここで指摘されているような、本来は十八願について言われていることを「十九願」や「三願転入の教え」にすり替えて説明している例は他にもあります。しかし、自分でお聖教を拝読しない会員さんはなかなか気がつかないでしょうから、今回の記事では、親鸞会公式ホームページから五劫思惟は誰のため|親鸞会 顕正新聞を取り上げ、その誤りを指摘したいと思います。

(前略)

金輪際、助からぬ自覚もなければ、助かりたい心もない悪業煩悩の塊を、どうしたら助けることができるか。

そのご計画に、五劫という気の遠くなる期間かかられている。

親鸞聖人は、

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄)

そこまでご苦心いただかねば、救われない親鸞であった、弥陀の五劫の思惟はひとえに私一人のためだったと喜ばれている。

いくら素晴らしい設計図があっても、莫大な費用と労力がそろわねば、立派な建物は完成しない。

我々を救う準備を完了されるのに、弥陀は兆載永劫のご修行をされている。

計り知れぬ悪業(若干の業)を持つ我々を救うには、どうしても五兆の願行が必要だったのである。

どうすれば十方衆生を十八願「無碍の一道」まで誘導できるか、最深の熟慮の末に弥陀が建てられた十九、二十願を「方便の願」と親鸞聖人は言われる。

その方便を「要らぬ」「遠回り」とうそぶく者たちは、五劫思惟より近道をあみ出した、弥陀に助けていただく必要のないド偉いお方なのだろう。

我々親鸞学徒は、弥陀の願意を親鸞聖人が微塵の計らいも入れず開顕なされた三願転入のご教導を、決して踏み外してはならない。


この文章を読んだ会員さんは、「阿弥陀仏が五劫思惟なされて衆生を救うために三願転入の道を建立され、親鸞聖人はそれを開顕なされたのだから、それに従わなければならない」と思うことでしょう。しかし、お聖教を拝読すれば、五劫思惟の内容が「三願転入の教え」ではないことはすぐに分かります。

親鸞聖人がお同行方に拝読を勧められていた『唯信鈔』では、「念仏往生」について説かれているところに五劫思惟の内容が教えられています。多少長いですが「念仏往生」に当たる部分を全文引用します。長いと思われる方は赤字の部分を拝読して下さい。

二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。
これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。そもそも名号をとなふるは、なにのゆゑにかの仏の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏に成りたまはざりしむかし、法蔵比丘と申しき。そのときに仏ましましき、世自在王仏と申しき。法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまゐりて申したまはく、「われすでに菩提心をおこして清浄の仏国をまうけんとおもふ。
願はくは、仏、わがためにひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」と。そのときに世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人・天の善悪、国土の粗妙をことごとくこれを説き、ことごとくこれを現じたまひき。
法蔵比丘これをききこれをみて、悪をえらびて善をとり、粗をすてて妙をねがふ。たとへば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず、三悪道なき世界をば、これをねがひてすなはちとる。自余の願もこれになずらへてこころを得べし。このゆゑに、二百一十億の諸仏の浄土のなかより、すぐれたることをえらびとりて極楽世界を建立したまへり。たとへば、柳の枝に桜のはなを咲かせ、二見の浦に清見が関をならべたらんがごとし。これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。かくのごとく、微妙厳浄の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。
 国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
 布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
「如来尊号甚分明 十方世界普流行
 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
といへる、このこころか。
 さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。
「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
このこころか。これを念仏往生とす。


果たして、このようなことが説かれている『唯信鈔』の拝読を勧められていたお同行方は、五劫思惟と重ねて、「十九願」や「三願転入の教え」ということにこだわるようになるでしょうか?

どれほど素晴らしい浄土を阿弥陀仏が建立されていたとしても、衆生が往生し難ければ、阿弥陀仏の目的を達成することはできません。だから、法蔵菩薩は、一切の善悪の凡夫が等しく往生できるように、「ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟」なされたのです。

ここには、親鸞会の説くような「三願転入の教え」などということは出てきません。この『唯信鈔』の拝読をお同行方に勧められた親鸞聖人もまた「三願転入の教え」などという思想を持っておられなかったのです。

それにしても、「弥陀に助けていただく必要のないド偉いお方なのだろう」というような表現を高森会長・親鸞会は好きですね。こんな言葉が出てくるようでは、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもらさず救おうとなされている弥陀の願心を伝えているとはとても思えません。

会員の皆さま、「五劫思惟は誰のためか?」お聖教に沿って理解していただきたいと思います。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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