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私の知る限りでは、「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。…」は、K森氏が最初に三願転入の教えの根拠として用いたようです。
それを論破する意味で、上記の2つのブログで引用して正しい意味を説明されています。そういった背景があります。

親鸞会の毒が抜けないと、親鸞会は間違っていると外部から攻撃しているつもりで、親鸞会の邪義に加担している典型例です。
  • 2011-02-06 09:34
  • 幹部会員歴数十年
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[C175]

K森さんは、今でも親鸞会と同じ発想から脱することができません。
違いは、親鸞会は強要や名利のための善、K森さんは自発的な善、との差です。
往生と善を関連付けたら、自分以外の教えを聞かせないようにするのは、共通です。

[C176]

>コメントを頂いた皆さま

コメント有り難うございました。
コメントを参考に記事に記述を加えました。
  • 2011-02-06 15:06
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突然使われるようになる根拠の背景を推測する

※2月6日、頂いたコメントを参考にして、記述を加えました(記事中※印)。コメントを下された皆さま有り難うございました。

『教学テキスト』から『教学聖典』に改訂されたときに、加わった設問に、

『教学聖典』(4)
問(49)
「後生の一大事」とは、死後永く地獄で苦しむことであると明示された、蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(49)
○後生ということは、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべきものなり。(帖外御文)


があります。しかし、『教学聖典』に改訂された後も、高森会長の法話で根拠として提示されることはありませんでした。ところが、近年になってネット上の親鸞会関係サイトで見られるようになり、昨年は高森会長の法話や座談会で根拠として提示されるなどしたようです。また、『顕真』平成22年11月号の巻頭言は、

「後生という事は、ながき世まで
 地獄におつることなれば、
 いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
 弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」
(御文章)

「後生とは、未来永く地獄に堕ちて苦しむことをいう。
 だから急いでこの一大事解決のために、
 阿弥陀仏の救いを求めねばならない」

でした。

私は、『教学聖典』に改訂されたときからつい最近まで、高森会長が『帖外御文』を拝読して、この蓮如上人のお言葉を用いることにしたのだろうと思っていたのですが、どうやらそういうことではなさそうです。昨年末、ネット上に『現代における異義の研究 伝道院紀要24号』が公開され、そこで以下の記述を見つけました。

尚、蓮如上人の『帖外御文章』には

世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。(蓮如上人遺文、稲葉昌丸編、五〇三頁)

とあり、後生を単に今生に対する意に用い「ながき世まで地獄におつる事」とあるところは、高森親鸞会の主張の根拠になるとも思はれるが、ここにも「後生は永生の楽果」とあるのであり、いずれにせよ主意とするところは「往生浄土(極楽)の大事」ということであろうと考えられる。


おそらく高森会長は『帖外御文』を拝読したのではなく、紅楳英顕師のこの論文を読み、しかも「後生は永生の楽果」という部分を抜いて、『教学聖典』の設問を作成したのでしょう。

※弘宣部では、大峯教授の記述の中に上記の蓮如上人のお言葉を発見し、平成一桁代から時折とどろきに用いていたそうです。こちらのルートから情報を入手し『教学聖典』に改訂するときに加えた設問かもしれませんが、やはり高森会長自身が『帖外御文』を拝読していたわけではなさそうです。
 
 
さて、平成21年末から突然使われるようになった根拠として、『一念多念証文』の
おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。
があります。このお言葉を、平成20年以前に親鸞会から発行された書籍・新聞などで読んだことはありませんし、法話や教学講義などで聞いたことはありませんでした。では、平成21年末以前に親鸞会について言及しているブログで、この『一念多念証文』のお言葉を引用しているものはないかと調べてみると、
『21世紀の浄土真宗を考える会』要門考(平成21年7月31日)
『親鸞会教義の誤り』親鸞会は諸行往生9(平成21年11月24日)
に書かれていました。高森会長か、もしく教学課などの人がこれらを読んで、このお言葉は使えると思って平成21年末から用いるようになったのではないかと推測できます。

※上記の二つのブログに書かれる以前にK森氏が根拠として用いていたそうです(幹部会員歴数十年様のコメントより)。そちらを高森会長・親鸞会が参考にしたのかもしれません。


会員の人は、高森会長はものすごい教学力を備えていると思い込んでいることでしょう。私も会員時代はそのように思い込んでいました。しかし、親鸞会を退会し、自分でお聖教を拝読してみて分かったことは、高森会長は浄土真宗についてほとんど何も知らない、単なる思い込みか思いつきで話をしているだけだということです。

自分でお聖教を拝読せず、伊藤康善師や大沼法龍師または批判者の書いた文章から断章したお聖教のお言葉を用い、思いつきで話するので、高森会長の解釈と合わないお聖教のお言葉は山のように出てきます。そして、それらを指摘されても、無視を決め込んでいます。会員に対しては、「善の勧めがないという者がいる」とか「善を捨てて救われたといっている者がいる」とか批判者の主張を捏造して、徹底すること位しかできていません。

・平成21年末まで使われたことがなかった根拠「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」について、9回も座談会が行われるのはなぜなのか?
・9回も座談会で取り上げられるほど大事なお言葉が、平成21年末以前に話されることがなかったのか?
・そもそも、『教学聖典』(1)~(9)に掲載されていないのはなぜなのか?
・このお言葉を根拠にして、「仏教とは、弥陀の方便の善一つを教えられたものだ」(『浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介』切れ味鋭い断言より)と言っているが、「仏教とは弥陀の本願一つを教えられたもの」ではなかったのか?
などなど、このような疑問を会員の皆さまはもたれないのでしょうか?
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[C174] 最初に使ったのは

私の知る限りでは、「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。…」は、K森氏が最初に三願転入の教えの根拠として用いたようです。
それを論破する意味で、上記の2つのブログで引用して正しい意味を説明されています。そういった背景があります。

親鸞会の毒が抜けないと、親鸞会は間違っていると外部から攻撃しているつもりで、親鸞会の邪義に加担している典型例です。
  • 2011-02-06 09:34
  • 幹部会員歴数十年
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K森さんは、今でも親鸞会と同じ発想から脱することができません。
違いは、親鸞会は強要や名利のための善、K森さんは自発的な善、との差です。
往生と善を関連付けたら、自分以外の教えを聞かせないようにするのは、共通です。

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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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