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「不可称・不可説・不可思議」とは善の勧めのことではありません

3月11日の東日本大地震から10日が経ちました。多数の死者、行方不明者、被災者が出ており、戦後最大の危機と言われています。被災された方々に心からお見舞いを申しあげます。

さて、その3月11日にも親鸞会公式ホームページは更新されています。
弥陀の方便なくして真実へは入れぬという記事です。相変わらず、本来は「十八願」について教えられたお言葉を、「十九願」や「三願転入の教え」について仰っているかのようにねじ曲げて、「弥陀が善を勧められているのだから計らわずに実行せよ」というように誤解させる文章をアップしています。その文章の後半部分を読んでみましょう。


 では、「万行諸善これ仮門」とはどういうことであろうか。

 阿弥陀仏は、十方衆生を真実の十八願で救うために、十方衆生を相手に、十九、二十の方便願を建てられている。十八願だけで救えるのなら、弥陀が方便二願を建てられるはずがないのだ。十八願の誓いを果たすために、絶対必要不可欠な方便だったのである。

 その十九願で十方衆生に「修諸功徳」と、万行諸善を勧められた弥陀の願意を、釈迦が生涯説き明かされたのが、七千余巻の一切経となったのである。

 それを親鸞聖人は、

「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」(一念多念証文)

〝釈迦一代の教えは、弥陀の方便(十九願)の善である〟と、ズバリ喝破されている。

 方便からしか、真実へは入れない。必ず十方衆生が通らなければならない道程だから、要門とか仮門と言われているのだ。

「一生造悪の我々に、善を勧めるのは矛盾だ」と仏智を疑い、「十九願は捨てもの。十八願だけでいい」「弥陀・釈迦の方便は、俺には必要ない」とうそぶく。

 顛倒している者は、真っすぐ立っている者が、顛倒しているとしか見えないのである。

 凡夫で分かる弥陀の救いなら、親鸞聖人は「不可称・不可説・不可思議」とは仰るはずがなかろう。

「おおよそ大信海を案ずれば、
 ─乃至─
 ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり」 (教行信証信巻)


「阿弥陀仏が十九願で善を勧められているのだから、その仏智を疑うな」という論調ですが、最後に根拠として挙げた親鸞聖人のお言葉は十八願について教えられたものであり、十九願のことではありません。このお言葉は第十八願の信心の徳を讃えられたものです。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。(信文類

(現代語訳)『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』(梯實圓著・本願寺出版)259-260頁より
おおよそこの海のように広大な徳を持っている偉大な信心について味わってみると、身分の違いや出家在家の違いを分け隔てせず、男女とか老少を区別せず、犯した罪の多少を問題にせず、修行期間の長短を問題にせずに救いをもたらします。それは自分が行う行でも善でもなく、自力で速くさとれるか、遅くしかさとれないかを問題にする教えでもありません。心を静めて行う定善でも、散心のままで行う散善でもありません。正しい観想でも邪な観想でもありません。仏の姿形を思い浮かべる有念でもなく、姿形を超えた無相を念ずる無念でもありません。尋常にかぎるのでもなく臨終にかぎるのでもありません。多念往生にかぎるのでも一念往生にかぎるのでもありません。それは、人間の一切のはからいを超越した、思いはかることもできず、称讃し尽くすこともできず、説き尽くすこともできない信楽なのです。

十八願について教えられたお言葉を「善の勧め」に適用するだけでなく、「修行の久近を論ぜず」という「どれだけ善に励んだかということは問わない」と教えられた部分を省略していることにも、親鸞会会員を間違った道に誘導しようとしている意図を感じます。

親鸞聖人は、要門について「不可思議」と教えられていないこともこの機会に知って頂きたいと思いますので、『愚禿鈔』の二教対のお言葉を紹介します。

本願一乗海は、頓極・頓速・円融・円満の教なりと、知るべし。
浄土の要門は、定散二善・方便仮門・三福九品の教なりと、知るべし。

と教えられた後、本願一乗海(十八願)と浄土の要門(十九願)を比較して説かれています。その中に、
思不思議対
とあります。『浄土真宗聖典(注釈版)』(本願寺出版社)の註に、「念仏は衆生の思議がおよばない尊い法であるが、諸善は思いはかることのできる法である」と書かれています。念仏の法(十八願)は不可思議の法なのですが、諸善の法(十九願)は不可思議の法とは教えられていません。

その不可思議の十八願を計らって、広大な信心を覆い隠してしまう誤った考えを機と法の面から種々に挙げて、一切の自力の計らいを否定されたのが、「おほよそ大信海を案ずれば~」のお言葉です。親鸞聖人が計らうな、疑うなと仰っているのは十八願のことだけであり、十九願や二十願、親鸞会流の三願転入の教え、また善のすすめのことではないことをよく知って頂きたいと思います。
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コメント

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[C258] 元って書いてあるけど・・・

コメントを皆さんが閲覧出来ないのは・・・
ご自分に不都合な事でも?
賛否両論公開して欲しいですね!
  • 2013-04-23 01:19
  • 冨田 信
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  • 編集

[C259] 冨田 信様

コメントの公開・非公開は、コメントされる方が選択されるものです。
管理人に対しての個人的な連絡などの場合、非公開コメントにされる方が多いようです。
  • 2013-04-23 01:29
  • いつもの元会員
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