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弥陀の招喚 ー 親鸞聖人と親鸞会の相違  ー

二河白道の譬えの中に説かれている弥陀の招喚のお言葉

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(『散善義』信文類引文より)

で、親鸞会において、最も強調して話をされる部分は、

すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

です。このことは、『教学聖典(6)』に

問(6)
どんな時の行者に、西岸上からの呼び声が聞こえたのか。その時の呼び声を書け。
答(6)
○水火の難に堕することを畏れている行者に。
○汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、衆て水火の難に堕することを畏れざれ。


という問答があることからも分かります。

「畏れるな」という喚び声は、水火の難に堕することを畏れている行者に聞こえるのだ。たばこをのんでいない者にはたばこをのむなとは言われない。酒を飲んでいない者には酒飲むなと言われない。たばこをのんでいる者にたばこをのむな、酒を飲んでいないものに酒飲むなと言われる。同じように、「畏れるな」という喚び声は、水火の難に堕することを畏れている行者に聞こえる。』のように高森会長が説法で話すのを聞いたことのある人は多いと思います。「すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」という部分を強調し、求道とは煩悩とのたたかい、横の道を進めば必ず煩悩が問題になってくる、煩悩が邪魔になってくると話をして、聞く者に機ばかりを問題にさせてしまっています。また、煩悩とのたたかいの先に信心獲得があると聞法者に思い込ませてしまうことも問題です。

一方、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」の部分についての説明は、親鸞会の法話・会合などではほとんどなされないと言ってもよいでしょう。


ここで、親鸞聖人は弥陀の招喚のお言葉について、どのように解釈されているのか見てみましょう。『愚禿鈔』で詳しく教えられています。

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 一六)にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』(論註・上意)には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」(散善義・意 五〇〇)といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。


拝読してみれば分かるように、「すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」については解釈を施されていません。それどころか、この部分は引用もされていません。そして、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」について詳細に教えられています。

親鸞聖人が解釈されている部分を説かず、親鸞聖人が教えられていない部分ばかりを強調しているのが親鸞会であることが分かります。親鸞聖人の説かれ方と異なるように教えていながら「親鸞会」を名乗るのは、看板に偽りありです。

すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と同じことを『御文章』には、
あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず(2帖目10通)
わが身の罪のふかきことをばうちおきて(3帖目1通)
ただわが身の罪のふかきには目をかけずして(3帖目5通)
わが身の罪のふかきことをばうちすてて(5帖目14通)
まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて(5帖目18通)

などと説かれています。これらのお言葉については、『顕真』1月号法友通信を読むにて触れました。

このような蓮如上人のお言葉を拝読すると、これは自己の罪悪を問題にしている人に対して、問題にするなと仰ったお言葉で、自分はまだそこまで罪悪・煩悩が問題になっていないから今はもっと善に励んで、罪悪が問題になるところまで進まなければならないのだと思う会員さんもあるかもしれません。しかし、蓮如上人はそのように、求道の道程として罪悪を問題にせよというような意味のことはどこにも教えられていません。反対に「罪の沙汰は無益」であると仰っています。

一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書39)

阿弥陀如来の「助けるぞ」の勅命を計らいなく聞き受けるか否かだけで往生が定まるのです。我が機ばかりをみつめるのでなく、「必ず助ける」の大悲の喚び声に向いて下さい。

弥陀をたのむとは、向きをかえるなり。
「華山に向いて花を看、明月に向いて明月を観る」
というごとく、
機(自分)の方にむかわずして、
必ずたすけてやろうとある大悲にむかう一念が、
「後生助けたまへと弥陀をたのむ」こころなり。
(一蓮院秀存師)
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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