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読ませてもらいました。
自分自身ではなにかと穴があって抜けていることに気付かせてもらいました。
まず正確に読ませていただくことが大事なんですね。
狂ったフィルターだと目が詰まってなにかと故障してしまうようです。
これで親鸞会には親鸞聖人はおらず、しかもアニメ第二章は高森顕徹の人格が色濃く反映していると推測しました。

今回読ませてもらってようやく歎異抄に親鸞聖人の息遣いが感じられました。
仮定なんですね。
てにおは、のなんてことない一字のように感じて軽くみて飛ばしていたことでこんなにも違ってくるんですね。
少し感動しました。
  • 2011-06-15 23:47
  • 影楼
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[C201]

>影楼様

多くのブログで指摘されているように、親鸞会でなされている解釈には、大きなバイアスがかかっています。お聖教のお言葉をそのまま拝読するのではなく、高森会長でなければお聖教の真意は分からないのだという理屈で、文章の意味を離れた独善的、決めつけ解釈が多々なされています。

アニメにしろ歎異抄の解釈にせよ、高森会長の人格が色濃く反映されているのだと私も感じます。
  • 2011-06-16 20:09
  • いつもの元会員
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お聖教は原文に沿ってその御心を汲み取っていく姿勢で解釈すべき

今日は、親鸞会における『歎異抄第2章』の「弥陀の本願まことにおわしまさば」の解釈について見てみたいと思います。

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。
(歎異抄2章)

〝弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
 釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。
 善導の御釈がまことならば、そのまま教えられた、法然上人の仰せにウソ偽りがあろう筈がないではないか。
 法然の仰せがまことならば、そのまま伝える親鸞の言うことも、そらごととは言えぬのではなかろうか〟

 750年ほど前、京にまします親鸞聖人の元へ、関東から命懸けで訪ねてきた同朋たちに対する、聖人の直言である。

「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「本願が、まことであるとするならば」と仮定で領解する人が多いが、ここは、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

弥陀の本願と親鸞聖人より引用)


上記のように、親鸞会では、「弥陀の本願まことにおわしまさば」を「弥陀の本願がまことだから」と解釈します。しかし、「おわしまさば」は、四段活用動詞「おわします」の未然形「おわしまさ」+「ば」なので、文法的には仮定で解釈するのが正しいです。「弥陀の本願まことだから」という意味を聖人が仰りたかったならば、「おわします」の已然形「おわしませ」+「ば」で、「おわしませば」となるはずです。実際、『歎異抄』には、

弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。(第13章)

などと「おわしませば」と書かれている箇所があります。当時、「おわしまさば」と「おわしませば」は使い分けられていたのです。

では、文法上は明らかに仮定の文章である「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、どのような理屈で「弥陀の本願まことだから」と親鸞会では解釈しているのでしょうか?上の公式ホームページからの引用文は以下のように続きます。

親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」(教行信証)

〝まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった〟の大歓声をはじめ、親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が常に原点であった聖人が、仮定で本願を語られるはずがなかろう。


本願まことが原点の聖人が、本願を仮定で語られるはずはない、だから「弥陀の本願まことだから」という意味なのだというのが親鸞会の主張です。

しかし、ここで本来考えなければならないことは、他のところでは「本願まこと」と仰っている親鸞聖人が、『歎異抄2章』では、なぜ「弥陀の本願まことにおわしまさば」と仮定の表現で語られたのだろうか?ということでしょう。しかも、仮定の表現が「仏説まことにおわしまさば」、「善導の御釈まことならば」、「法然の仰せまことならば」と後に3回も続いているのです。その御心を汲み取るように解釈する方が適切だと思うのですが、いかがでしょうか?

この聖人が仮定の言葉を連ねておられる点について『聖典セミナー 歎異抄』(梯實圓著・本願寺出版)102-103頁には、次のように書かれています。

 しかし、このことをいうのに「まことにおわしまさば」という仮定の言葉をつらねておられる点に、奇異な感じをうけます。そこには、反語的に意味を強めるようなひびきも感じられますが、何よりも「親鸞が申すむね、またもってむなしからず候ふか」という謙虚な領解の言葉を述べるためだったと思います。
 ふつう絶対真実の法の伝統を語った後は、「法然の仰せまことなるがゆえに、親鸞が申すことも決していつわりではない」と断言するでしょう。そして「親鸞の信心はかくのごとし、このうえは、面々、念仏をとりて信じたてまつるべし」と結ぶでしょう。そうなれば、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」のイメージが強くなり、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(『註釈版聖典』八三五頁)といいつづけられた親鸞とは、ちがった人格になってしまいます。
 聖人は、「法」の名によって「私」を主張することを厳しく自戒されています。自分がいただいている教法が貴いということは、自分が貴いことでは決してありません。むしろ、教法の貴さがわかればわかるほど、自身の愚かさを思い知らされていくはずです。仏祖の名を利用して、名利をむさぼったり、「よき師」の名をかりて、自己を権威づけようとするほど醜いものはありません。
 こうして聖人は「愚身の信心におきてはかくのごとし」と述べ、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」とおことばを結ばれています。率直に自身の信心を表明された聖人は、門弟たちの一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか。したがわぬかを決断する以外に道のない、仏法の厳しさを知らしめられていたといえましょう。


ここで、『歎異抄第2章』のこの部分を断言で解釈してしまうと、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」になってしまう危険性が指摘されています。また、断定の言葉を連ねると最後の「親鸞の言うことはそらごとではない」が強調され、関東の同行が知識の言葉のみを信じ弥陀に向かない「善知識だのみ」に陥ってしまう危険性もあります。実際、『歎異抄第2章』のこの部分を断定で解釈する話を聞いている親鸞会の会員さんは、「高森先生の仰ることにウソいつわりがあるはずがない」と知識ばかりに向いてしまっていて、梯師が述べているような「一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか。したがわぬかを決断する」という弥陀に向くということが抜けた状態になってしまっています。

お聖教を解釈するとき、原文に沿ってその御心を汲み取っていく姿勢で解釈していくことが大事だと感じます。

人に向くのではなく、本願の仰せ、如来の勅命に向くように教え勧めていかれたのが親鸞聖人・蓮如上人です。一方、知らず知らずのうちに如来に向くのではなく、高森会長に向くようになってしまうように教えが説かれ、指導がなされているのが親鸞会であることも知ってもらえればと思います。

(参考)
『用管窺天記』歎異抄の仮定法
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これで親鸞会には親鸞聖人はおらず、しかもアニメ第二章は高森顕徹の人格が色濃く反映していると推測しました。

今回読ませてもらってようやく歎異抄に親鸞聖人の息遣いが感じられました。
仮定なんですね。
てにおは、のなんてことない一字のように感じて軽くみて飛ばしていたことでこんなにも違ってくるんですね。
少し感動しました。
  • 2011-06-15 23:47
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多くのブログで指摘されているように、親鸞会でなされている解釈には、大きなバイアスがかかっています。お聖教のお言葉をそのまま拝読するのではなく、高森会長でなければお聖教の真意は分からないのだという理屈で、文章の意味を離れた独善的、決めつけ解釈が多々なされています。

アニメにしろ歎異抄の解釈にせよ、高森会長の人格が色濃く反映されているのだと私も感じます。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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