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加茂和上の文章を断章した昭和50年の「顕正新聞」(頂いたコメントより)

ブログ読者の方から情報を頂きました。有り難うございました。
そのまま記事にさせて頂きます。

昭和50年の「顕正新聞」で会長は加茂和上の文章を断章しています。

一心一向とは我々の心ではないのか

○問
 本願寺の加茂仰順という司教が、「『御文章』に『心を一つにして』と申されてあるのは如来のお心一つで助かるということで、こちらの心は幾つあってもよいのである」と書いていますが、これでよいのでしょうか。お尋ねいたします。

○答
 蓮如上人の『御文章』には、
「二心なく弥陀をたのめ」
とか、
「心を一つにして阿弥陀如来をたのみたてまつるべし」
というお言葉が散見されます。
 これは大変大切なことだからです。
 この意味は『御文章』五帖目十九通にも、
「みなみな心を一つにして、阿弥陀仏を深くたのみたてまつるべし。その他には何れの法を信ずというとも、後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず」
と明らかなように、
「阿弥陀如来一仏に心を向け、こんな極悪人を助け給う仏は、阿弥陀如来の他には絶対ないと、心を阿弥陀如来一つになりなさい、それより他に助かる道は絶対にありませんよ」
ということです。

  娘一人にムコ八人

 例えて申しますと、世間には娘一人にムコ八人ということがありますが、そんなときはどの人にしようかと娘の心は千々に分かれます。
 東へ行こうか、西にしようか、南にしようか、北へ行こうかと心は幾つにも乱れます。東の人は男が良いが金がない。西の男は金があるが男がつまらぬ。南は金も男もよいが姑が強く辛そうだ。北に貰って貰おうかと思えば、何もかもよいが血統が気に入らぬ。
 さてどの人にしようかと、迷うているときが二心の状態です。
 それが、いつまでも考えたとて仕方がない。東へ行くことにしようと心を一つに決定したすがたを一心というのです。

  行かず後家に求婚

 また三十歳にもなるのに何処からも貰いに来てくれず、学校の友だちは二人も三人もの子持ちになっているのに、自分は嫁入りもできぬ。
 貰ってくれと催促もできず、広告も出せぬ。派手な着物に若作りして売りものと書いておきたいほどあせっていても、誰一人プロポーズしてくれない。
 行かず後家で一生暮らさにゃならぬのか、と絶望しているところへ近所のおばさんがやって来て、
「どうもあなたの娘さんでなければならぬ、ぜひお貰いしたいと先方たっての頼みです。どうか承知してください」
と、母親に頼んでいるのを隣室で聞いた娘は、
「マァ、嬉しい」
と即座にその人に心が定まったのが、一心になったときのすがたです。

  一向専念のご教示

 これを『御文章』二帖目九通には、
「一心一向というは、阿弥陀仏に於て二仏を並べざる意なり。この故に、人間に於ても、まず主をば一人ならではたのまぬ道理なり。されば『外典』の語に云わく、『忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず』といえり」
と、真実の信を求め、真実信心を獲得した仏法者は一心一向であり、阿弥陀如来一仏に向かい、弥陀以外の一切の諸仏・菩薩・諸神に向かう心はないのだ。またあってはならないことを、ねんごろにご教示なされています。
 さらに『御文章』五帖目一通には、
「心を一つにして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、更に余の方へ心をふらず、一心一向に『仏助けたまえ』と申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし」
と、諸仏や菩薩に心をふらず、弥陀一仏に向かってこそ助かることができるのだ、明白に教えられています。
 一切の諸仏・菩薩・諸神に捨て果てられた私たちは、このような極悪深重の悪鬼を救い給うのは、阿弥陀如来ばかりであると心を弥陀一仏に向けて進めと、お勧めになったのが、親鸞聖人や蓮如上人の生涯を貫かれたご教化でありました。
 余りにも激しくこれを叫ばれたがために、親鸞聖人は流刑に遭われました。そして、世間の人は一向宗とまでいうようになりました。
 このような真実を踏みにじって、
「こちらの心は幾つあってもよいのだ」
などと公言する者は浄土真宗を殺している仏敵であり、司教ではなくて死教と言わずにはおれないでありませんか。
 かかる百鬼夜行の五濁悪時において、真実を求めぬくことは難中の難事であり、余程の厚い宿善と強い覚悟が必要であることが知らされるばかりではありませんか。
(『顕正新聞』昭和50年11月20日号)

書かれた時期は異なりますが、加茂和上は以下のように書かれています。

こころをひとつにしての意味

そなたの心を一つところに定めよ、そなたの心をよそに向けるな。そうでなければ、われは救わないと申されても仕方がないのに、そなたの心のいかなるときでも、その一々の心をそのままひきうけるぞと仰せられる。
「御文章」に「心を一つにして」と申されてあるのは、如来のお心一つで助かるということである。こちらの心はいくつ有ってもよい、というのである。
私の心に合わせてのお助けである。私は如来にそむきづめで、それでお慈悲に遇わせていただくのである。

『親鸞の世界-信の領解-』永田文昌堂 昭和58年
P333~4
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