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[C207] 無茶苦茶だな

こういう解釈に騙される方もどうかと思ふけど、このような無茶苦茶な解釈をネットで公開している高森会の無知というか蛮勇にも驚いた(笑

[C208]

>林遊様

自分たちの解釈が無茶苦茶だとは思っていないので、S会の人達は公式ホームページで公開できるのでしょう。

公式ホームページにアップされている内容を、見る人が見れば、この団体は真宗ではないと知ることができるので、S会に迷う人を減らす役割を果たしているかもしれませんね。
  • 2011-08-22 20:42
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文章の一部分を取り出し文意と異なる意味を信じ込ませる親鸞会ー『御文章』5帖目9通を例にー

親鸞会では、文章の一部分を取り出して、その文章が書かれた意図とは全く異なる意味を会員さんに信じ込ませるという情報操作が行われています。今日は、『御文章』5帖目9通の「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」を例にこのことを見ていきたいと思います。

まず、親鸞会では、親鸞聖人の『一念多念証文』のお言葉、「おおよそ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり」から、「釈迦一代の教えはすべて弥陀の方便(19願の諸善の勧め)である」と主張しています。そして、マンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度 「知識の大罪」の巻 にあるように蓮如上人の
一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり(御文章)
のお言葉を
釈迦一代の教えを説かれた一切経(19願)は、ただ南無阿弥陀仏を信ぜしめる(18願)ためのものである
と説明して、
「方便から真実に」が釈迦、親鸞聖人、蓮如上人に一貫した教え
と説いています。

この結果、親鸞会の説明のみを聞いている人は、19願の諸善の勧めに従い、それを実践した先にのみ、18願に転入することがあると信じ込まされてしまうのです。実際に、親鸞会の会員の皆さまは「19願の善の実践」ということばかりが頭の中に残っていることだと思います。

以上のように、「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」のお言葉を、方便から真実に入ることを教えられた蓮如上人のお言葉と理解させ、一切の聖教に教えられている19願の善を実践しなければ、真実の18願に入れないのだと会員さんに信じ込ませていくのが親鸞会の説明です。

しかし、蓮如上人の書かれた『御文章』5帖目9通を通して拝読してみれば、親鸞会の主張する19願の諸善を勧めるような意図は、蓮如上人には全くないことが分かります。以下に全文を引用します。

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

御文章5帖目9通

浄土真宗の安心の一義というのは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころであると最初に書かれて、その南無阿弥陀仏のこころ一つを教えられたお手紙であることが分かります。

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり」、「ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」とお手紙の最初と最後に「ただ」と書かれています。「ただ」とは二つも三つもない、あれでもないこれでもない、ただ一つのただのことだと高森会長が話をしているのを聞いたことがある会員・元会員の人は多いでしょう。このお手紙の中で出てくる「ただ」もそうです。唯一ということです。

蓮如上人の御教化は、つねに18願の安心一つを教え勧めること、南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞けということでした。このことは『御文章』を一貫しています。そして、このお手紙も南無阿弥陀仏の六字のこころ一つが説かれています。

このようなことを踏まえて「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」を拝読すれば、一切の聖教というのも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせるたものものだから、「ただ南無阿弥陀仏の六字のこころを聞きなさい」ということが蓮如上人の仰りたかったことであることが分かります。

真実の18願に入るのに方便の19願の善を実践せよというような意味のことを、蓮如上人はお手紙では一切書かれていません。しかし、文章の一部分だけを提示されたとき前後を拝読して自分で文章の意味を汲み取ろうとしない人、高森会長の解釈のみが正しいと信じ切っていて自分でお聖教を拝読することを放棄してしまっている人は、親鸞会の解釈を受け入れてしまうのでしょう。親鸞会の会員さんは『真宗聖典』を持っているのですから、自分で通して拝読することをお勧めします。


さて、「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」について、今回の記事をまとめます。

《親鸞会の説明》
「方便から真実に」ということを教えられた蓮如上人のお言葉と理解させ、「一切の聖教」=「釈迦一代の教え」=「弥陀の19願の諸善の勧め」と示すことによって、19願の諸善を実践にばかり目を向けさせる説き方。


《蓮如上人の教えられたこと》
一切の聖教というのも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせるたものものだから、「ただ南無阿弥陀仏の六字のこころを聞きなさい」ということ。


親鸞会は19願の実践に重点を置いた説明ですが、蓮如上人は19願には一切触れず南無阿弥陀仏の六字のこころを聞け、すなわち18願一つを聞けと教えられています。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言(正信偈)

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」といふは、釈尊出世の元意は、ただ弥陀の本願を説きましまさんがために世に出でたまへり。五濁悪世界の衆生、一向に弥陀の本願を信じたてまつれといへるこころなり。(正信偈大意


善知識方を一貫しているのは、ただ18願一つを説くこと、そしてただ18願一つを聞けと教え勧めることなのです。
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[C207] 無茶苦茶だな

こういう解釈に騙される方もどうかと思ふけど、このような無茶苦茶な解釈をネットで公開している高森会の無知というか蛮勇にも驚いた(笑

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>林遊様

自分たちの解釈が無茶苦茶だとは思っていないので、S会の人達は公式ホームページで公開できるのでしょう。

公式ホームページにアップされている内容を、見る人が見れば、この団体は真宗ではないと知ることができるので、S会に迷う人を減らす役割を果たしているかもしれませんね。
  • 2011-08-22 20:42
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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