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本願一乗とは(1)「一乗海の釈」

今回は、『一念多念証文』の
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
の中の「本願一乗」ということについて書きます。

本願とは十八願のこと。
一乗の一とは、唯一無二。
乗とは運載ということで、人びとを乗せて目的地へ運ぶ乗り物のことです。さとりの境地まで運ぶ乗り物ということで、教法のことです。

ですから、本願一乗とは、阿弥陀仏の十八願は一切の衆生を一人も漏れなく乗せて、完全なさとりの境地へ至らせる唯一無二の教法であることを意味します。


親鸞聖人は、『教文類』には真実の教である『大無量寿経』の教説を「一乗究竟の極説」と讃えられています。「一乗究竟の極説」とは、一切の衆生をことごとく仏のさとりに至らせる一乗教の究極を説きあらわした最高の教えということです。


そして、『行文類』には、一乗海の釈が説かれています。

「一乗海」といふは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり。涅槃界はすなはちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るはすなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず。異の法身ましまさず。如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するはすなはちこれ無辺不断なり。大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。

意訳:聖典セミナー 教行信証 教行の巻(梯實圓著 本願寺出版) 323-324頁より

 一乗海というのは、一乗とは、大乗です。大乗とは、すべてのものが仏になることのできる法を説く教えですから、仏乗ともいいます。一乗を得るものは、最高のさとりを得ます。最高のさとりとは、涅槃の境界です。涅槃の境界とは、究極のさとりそのものである究竟法身のことです。究竟法身を得るということは、一乗の法を究め尽くすことです。このほかに異なった如来はありませんし、異なった法身もありません。如来は、すなわち法身なのです。一乗の法を究め尽くすということは、空間と時間の制約を超えた領域に達することです。真の大乗からいえば、二乗とか三乗というような教えは実体としてあるわけではありません。二乗とか三乗というような教えは、未熟なものを育て導いていくための方便として、仮にしばらく設定された教えであって、唯一無二の真実教である一乗に引き入れようとして説かれただけのものです。一乗は、最高の真実が顕現している教え(第一義乗)です。真の一乗といわれるものは、一切の衆生を平等に救って往生成仏させる阿弥陀仏の誓願一仏乗だけです。

注:二乗とは、小乗の声聞乗・縁覚乗のことで、
  三乗とは、二乗に菩薩乗を加えたものです
  

一乗の法ということについてもう少し詳しく窺ってみましょう。

(1)一乗の法といわれるには、究極のさとりを得る法でなければなりません。そうでないならば、究極のさとりを得るのには、他の乗(教法)が必要なことになり、一乗法とはいえません。上のお言葉では、究極のさとり、最高のさとりを得ることが明らかにされています。

また、『証文類』でも、

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。

現代語訳

つつしんで、真実の証を顕せば、それは他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、この上ないさとりという果である。

と、弘願(十八願)の法門が最高のさとりに至る法門であることが明らかにされています。


(2)一乗の法は、全てのものを運載するものでなければなりません。そうでないならば、運載されない機のために別の乗(教法)が必要となるからです。

『行文類』では、正信偈の偈前に、

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。


と説かれ、十八願で救われるものは、「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」と、全てのものであることが示されています。


こうして、一乗の法とは、一切のものが究極のさとりに至ることのできる法門であることが分かりました。それが阿弥陀仏の十八願、誓願一仏乗です。


以上のこと、特に(1)で述べたことが理解できれば、弘願(十八願)による往生を願う者に、要門(十九願)、真門(二十願)を必修として教える「三願転入の教え」なるものは、親鸞聖人の教えでも何でもないことはお分かり頂けると思います。本願一乗(十八願)は、他の乗(法門)を必要とせずに、最高のさとりを得ることのできる法門なのです。

弘願(十八願)法だけで一切のものが究極のさとりに至れることを、親鸞聖人は明らかにして下されたのです。

次回の記事では、『化身土文類』で本願一乗が教えられている御文を紹介します。
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