Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント

[C255]

「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説かれるのを、無宿善の人がきいてしまうと、無責任説教ときこえるのでしょうかね。
『されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。』(御文章3帖目2通)
お仏飯で育った人でも、無宿善の人はいるということですね。
  • 2013-02-02 13:57
  • 雑草
  • URL
  • 編集

[C256]

>雑草様

「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」を無責任説教呼ばわりするのは、伊藤康善師の影響ではないかと推察しております。
伊藤師は廃立を強調するためでしたが、会長は「宿善は待つにあらず求むるものなり」と説くためという点で相違がありますが・・・
  • 2013-02-05 01:20
  • いつもの元会員
  • URL
  • 編集

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/169-a0f9ab0a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは無責任説教??ー本願を踏みにじる親鸞会ー

「親鸞聖人の教え」と「親鸞会の教え」はまるっきり違います。ですから、「親鸞会の教え」を盲信している人は正しい「親鸞聖人の教え」を見聞きしても、「これは違う、間違いだ」と思ってしまいます。以下は、『本願寺なぜ答えぬ』の一節ですが、似た文章は他の親鸞会発行物の中にも散見されます。

大体、浄土真宗の道俗は、生まれおちるより、他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ、と、無責任説教を聞かされているから、仏法をバカにして、初めから易しいものと目安をつけ、見くびっている者が多い。(聞法以外に、獲信の因縁は、ないかより引用

リンク先か、『本願寺なぜ答えぬ』を読んで頂ければわかりますが、この後、「修善は獲信の因縁(宿善)になる」という「親鸞会の独自教義」が展開されていきます。

上で引用した文章のようなことが刷り込まれている親鸞会の熱心な会員さんは「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説く人、そのような文章を見ると、「これは違う」と思い、もう受け付けなくなってしまうことでしょう。しかし、「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くことは誤りなのでしょうか?

阿弥陀仏の本願の救いは、無条件の救済、そのままの救いであることを、蓮如上人は次のように教えられています。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。(御文章2帖目7通

信心をとるのには、智慧も才能も学問も要らず、身分も関係なく、善人悪人の隔てもなく、性別も無関係なことを最初に書かれていますが、その後に続く、「なにのやうもなく」、「やうもいらぬ」も、私側には何の条件もついていないこと(無条件)を表しています。無条件ということは、今の私のそのままということでもあります。そして、安心をやすきこころとよみ、次にやすきこころとは「なにの造作もなく・・・」と示し、「易往而無人」と結ばれることで、「易往」の「易」が、容易とかたやすいという意味ではなく、自らの造作を何も加えない無作を意味する言葉であることが明らかになっています。また、「易往」の「往」とは「往生」ということですから、平たい言葉で言えばお助けということです。したがって、「易往」とは、そのままのお助け、無条件の救済ということになります。つまり、「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは、そのままのお助け、無条件の救いである阿弥陀仏の本願のこころをお取次ぎしているということなのです。

最近の親鸞会では宿善について強調して説いているようですが、「獲信の因縁として諸善を修せよ」などという教説は、上の蓮如上人のお言葉に反し、今の私のそのままで救われる無条件の救いである阿弥陀仏の本願を踏みにじる異義です。

阿弥陀仏の本願の救いにおいて、私の側に何の条件もついていないことを、親鸞聖人は、

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず。(信文類
(現代語訳)
おおよそこの海のように広大な徳を持っている偉大な信心について味わってみると、身分の違いや出家在家の違いを分け隔てせず、男女とか老少を区別せず、犯した罪の多少を問題にせず、修行期間の長短を問題にせずに救いをもたらします。


と仰っています。阿弥陀仏の救いは「修行の久近を論ぜず」でありますから、過去にどれだけの善を為したかは無関係です。それに真っ向から反しているのが「宿善があつくなって救われる」という「親鸞会の教え」であることが分かります。上の親鸞聖人のお言葉の後、親鸞聖人は『阿弥陀経義疏』から次のお言葉を引かれています。

念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり。(信文類
(現代語訳)
念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである。


無条件の救いである阿弥陀仏の本願は、「刹那に超越する成仏の法(たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教え)」であり、「世間甚難信(世間の常識を超えた信じがたい尊い教え)」です。そのような阿弥陀仏の救いをますます信じ難くさせ、その救いから遠ざけているのが、「三願転入の教え」や「獲信の因縁として善を修せよ」などと説く高森会長です。

阿弥陀仏の救いとは、無条件の救済、ただの救い、そのままの救いであることを教えられたのが親鸞聖人であり、蓮如上人です。「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのを無責任説教だと批判するのは、親鸞聖人や蓮如上人を批判しているのと同じであり、本願のこころを伝えていないということです。

「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは、阿弥陀仏は「そのままのお前のままで浄土に連れていくぞ」と仰せですよと本願のこころをお取次ぎしているということです。そして、「そのまま助けるぞよ」の勅命を、我が思いを雑えず、仰せのままに聞きうける以外に真宗の信心はないということをよくよく知っていただきたいと思います。
スポンサーサイト

コメント

[C255]

「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説かれるのを、無宿善の人がきいてしまうと、無責任説教ときこえるのでしょうかね。
『されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。』(御文章3帖目2通)
お仏飯で育った人でも、無宿善の人はいるということですね。
  • 2013-02-02 13:57
  • 雑草
  • URL
  • 編集

[C256]

>雑草様

「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」を無責任説教呼ばわりするのは、伊藤康善師の影響ではないかと推察しております。
伊藤師は廃立を強調するためでしたが、会長は「宿善は待つにあらず求むるものなり」と説くためという点で相違がありますが・・・
  • 2013-02-05 01:20
  • いつもの元会員
  • URL
  • 編集

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/169-a0f9ab0a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。