Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/182-77cb074e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

『なぜ生きる2』を読む(1)―阿弥陀仏の十九願は善を勧めた願ではなく、善を修めている者も導くという願である

以前の記事「仏願の生起・本末を聞く」ということと親鸞会で聞かされていることなどで指摘したように、親鸞会の教義の中核部分は、
阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の一機と見抜かれた
→ところが自惚れている私たちはそのようには思っていない
→そこで阿弥陀仏は自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために十九願を建てられた

という点にあります。

『なぜ生きる2』の「10章 弥陀の使命を釈迦果たす」では、上記と同じ内容の主張が繰り返されているので、今回の記事では、『なぜ生きる2』の同章の誤りを指摘したいと思います。
少々長くなりますが、まず、『なぜ生きる2』の192-201頁を引用します。

 大悲の願船に乗ずるのは、まったく弥陀のご方便による。
 弥陀は十八願に、十方衆生(すべての人)を極悪人と見抜いて「無条件で救う」本願を建てられている。

 だが十方衆生は、”オレはそんな悪人ではないぞ、善もできる”と、その本願を疑い、死にもの狂いで反発している。
 そんな我が身知らずのひねくれ者を、十八願・真実(絶対の幸福)まで、どう誘引し救い摂るか。

 弥陀は五劫思惟の末に、”善ができると思うならやってみよ”と、釘を鉄板にハンマーで打ち込むような、やるせない慈悲心で十八願・真実へ誘引されるのが、弥陀の十九・二十の方便願である。

 その弥陀の方便を知らせるために、釈迦は生涯、弥陀の十九願の徹底に努められたと『教行信証』に記されている。

 まず大意を述べよう。

 地震や津波、台風、豪雨、火災や病気、人間関係のもつれなど、苦しみ悩みの絶えぬ十方衆生(すべての人)は、数知れぬ外道や邪教から逃れて、ようやく仏教にたどり着く。
 だが三世十方を貫く因果の道理を聞きながら、悪を恐れて善に向かう者は、ほとんどなきにひとしい状態である。
 依然として内心は深く外道の迷信に汚染され、仏教徒といいながら善の勧めを非難する輩さえいる有様だ。

 悲しむべきこの実態を見られて釈迦は、諸善を勧める弥陀の十九願(修諸功徳の願)を生涯、説き明かされた。
 弥陀の十九願は、十方衆生(すべての人)を弥陀の十八願・真実(絶対の幸福)へ導くに、極めて重要な方便願であるからだ。

 (中略:因果の道理の説明)

 こんな邪見な高ぶり屋の十方衆生(すべての人)に、いくら因果の道理を説き重ねても、合点だけで実践が伴わない。
 実行しないのは、分かっていない証しである。実践してこそ、「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」の真実の相を実感する。
 身を挺する実行こそが、因果の道理の肝心を信知するのである。

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

 以下は、その文証である。


ここで、その文証として提示されるのが『化身土文類』要門釈のお言葉
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく

です。

このお言葉を冷静に拝読すれば分かりますが、どこにも「弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであった」ということは書かれていません。

そこで、「知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであった」という点を説明するために、『なぜ生きる2』では、聖人のお言葉ではなく、「キサーゴタミーの話」と「ある高僧を訪ねた医師の話」を載せ、
 出来ることを出来ないと思い込むのは懈怠だが、出来ないことを出来ると思うのは邪見であり自惚れである。
 弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ。
 ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。
(『なぜ生きる2』207-208頁より)

と結論を述べています。

結局、親鸞会の主張の根拠は、親鸞聖人のお言葉にはないということです。

いろいろなブログで既に指摘されていることですが、上の『化身土文類』のお言葉について、解説しておきます。
まず、大意ですが、
「さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、仏教以外の教え(九十五種の邪道)を今離れて、聖道門の教え(半満・権実の法門)に入ったといっても、真にさとりを得る者はきわめて少ない。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生することを説いた『観無量寿経』の教え(福徳蔵)を説いて、それらの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。すなわち、すでに慈悲の心からおこしてくださった第十九願がある。この願を修諸功徳の願と名づける。」

となります。半満・権実の法門とは、半満は半字教(小乗)と満字教(大乗)、権実は権教(方便の教え)と実教(真実の教え)ということで、同じく『化身土文類』に、「おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。」と教えられている聖道門のことです。

つまり、上の要門釈のお言葉は、「聖道門の修行に行き詰った人を導くために、釈尊は定散二善を教えられた『観経』の教えを説かれ、その本には、阿弥陀仏の十九願があった」という意味になります。

次に、聖道門の教えと『観経』の教え(阿弥陀仏の十九願)の関係について述べておきますが、両者は、行が同じという関係にあります。

聖道門では、この世でさとりを得るために、善を修めます。
一方、『観経』で説かれている定散二善も、行としては、聖道門の行と同じなのです。『観経』の中から根拠を一つ示すと、散善にあたる三福について、「この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり観無量寿経)」(この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである )と説かれており、聖道門の行と同じことが分かります。

では、両者は、どこが異なるのでしょうか?

実に、その行を行う信が異なります。具体的には、『観経』のお言葉で言えば「至誠心、深心、回向発願心」の三心をもって、十九願文で言えば「至心発願欲生我国」の信心をもって、その行を修するということが、聖道門の教えと、決定的に異なるところになります。

すなわち、聖道門の教えに従って善を修めてきた者に、その行は変えずに、阿弥陀仏の浄土に生まれたいという心をおこして、その行を修めなさいと、勧められたのが『観経』の教え(阿弥陀仏の十九願)ということになります。そして、その教えによって、聖道門の教えでさとりを得ることを断念した者は、浄土門に導かれることになります。

大学受験にたとえれば、英語と国語で受験できるA大学の合格を目指していたが、合格可能性が低く、A大学の受験を断念したものに対して、それまで勉強してきた英語と国語で受験できるB大学の受験を勧めるようなものです。この場合、受験科目は変わらず、目的とする大学がA大学からB大学に変わります。受験科目を「行」、A大学を「聖道門の教えによるさとり」、B大学を「観経の教えによる往生」と考えてみてください。

したがって、十九願で大事な点は、「至心発願欲生我国」の信心にあります。

親鸞聖人は、要門釈にて、「修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。」と、十九願名を5つ挙げておられます。
その中の「至心発願の願」は、十九願の信心を願名として用いられたもので、その願名を『化身土文類』の冒頭にも用いられています。しかし、『なぜ生きる2』では、要門釈のお言葉の部分に、「修諸功徳の願」しか、引用していません。十九願のポイントを知らず、とにかく「善のすすめ」をしたいという親鸞会の意図が伝わってくるように感じます。

さて、この記事のタイトルにしましたが、
十九願とは、善をしていない者に、善を実践せよと勧められた願ではなく、
善を実践している者(聖道門の修行をしている者)に対して、その善を往生のために修めなさいと勧められた願であって、
それによって、その者を浄土門に導かれている願である

ことがお分かり頂けると思います。

この記事を通して、親鸞聖人が教えられた『観経』の教え(十九願)の意義と、親鸞会で教えられている十九願の意義の相違を知っていただければ幸いです。

なお、『なぜ生きる2』10章はもう少し文章が続いていますので、それについては、次の記事で取り上げる予定です。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/182-77cb074e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。