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『なぜ生きる2』を読む(2)―定散二善は出来ぬことを出来ぬと信知させるために説かれたのではなく、聖道門の人に浄土を願わせるために説かれた

前回の記事の続きです。

親鸞聖人が、『化身土文類』の要門釈で、「聖道門の人を浄土門に導く教えが『観経』の教えであり、その本には阿弥陀仏の第十九願があった」と教えられていることについて、前回述べました。

同様のことは、『観経』の顕説(十九願意)を教えられているところでも説かれています。

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。(化身土文類
(現代語訳)
善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

ここで、「欣慕浄土の善根」とあるのが、「浄土をねがい慕わせるための善根」という意味で、浄土往生を願っていない者(つまり、聖道門の人)に浄土を願わせるための善だということです。

そして、その証文として、善導大師の『散善義』のお言葉を引いておられます。

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。(化身土文類
(現代語訳)
また、釈尊は『観無量寿経』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

これは、『散善義』に説かれている七深信の中の第三深信といわれるものです。ここでも、同様に、釈尊が『観経』に定散二善、三福、九品の教えを説かれたのは、かの仏の依報(=浄土)と正報(=阿弥陀仏と菩薩衆)をほめたたえて、人をして、浄土を願わせると深く信じると、先に述べたことと同じことが教えられています。ここで、「人をしての」の「人」とは、当然浄土を願っていない人のことですから、聖道門の人のことになります。

さらに、『化身土文類』では、『観経』の法義について説かれる最後に、この善導大師の教えを「欣慕の釈」と仰り、次のように教えられています。

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。
(現代語訳)
第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

このように、親鸞聖人は、『化身土文類』で、『観経』の顕説、十九願の意を明らかにされるところで、一貫して、「定散二善を説かれたのは、浄土を願わせるためであった」と教えられているのです。それは、どんな者に対してかと言えば、前回と今回で述べたように、「半満・権実の法門」に入ってもまことのさとりを得ることができない者(すなわち、聖道門の人)に対してです。

さて、『なぜ生きる2』10章の最後の文章(208-209頁)を見てみましょう。

 出来ることを出来ないと思い込むのは懈怠だが、出来ないことを出来ると思うのは邪見であり自惚れである。
 弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ。
 ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。

 弥陀の十九願の恩徳を聖人は、こう記されている。
 まことに十九願は、弥陀が十方衆生(すべての人)を十八願・真実に誘引する方便の教えであることが、善導大師の欣慕の釈からも、これでいよいよ明らかである。
 以下は、その文証である。
 
 仮令の誓願(第十九願)、良に由あるかな。
 仮門の教、欣慕の釈、これいよいよ明らかなり
                    (教行信証「化身土巻」・本)


欣慕の釈」については注釈に、「弥陀が十九願を建てられたのは、『弥陀の浄土に生まれたい』と恋い慕わせるため」と解説された、善導大師の教え」と書いてありますが、どんな人に恋い慕わせるためなのかは一切触れていません。

また、10章全体を通して「弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ」という点については、とうとう一つも親鸞聖人のお言葉を挙げることができませんでした。「キサーゴタミーの話」と「ある高僧を訪ねた医師の話」でごまかしているだけです。
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