Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/184-b5c3460e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

『なぜ生きる2』を読む(3)-隠された化土往生

前回前々回の記事で引用した『化身土文類』要門釈直前において、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
(現代語訳)
つつしんで、方便の仏と浄土を顕わせば、仏は『観無量寿経』に説かれている真身観の仏であり、浄土は『観無量寿経』に説かれている浄土である。また『菩薩処胎経』などに説かれている懈慢界である。また『無量寿経』に説かれている疑城胎宮である。

と、『顕浄土方便化身土文類』という題号に応じて、化身と化土が明らかにされます。

そして、『化身土文類』では、要門釈に続いて、十九願文を引かれ、十九願成就文を示された後、化土のすがたをあらわされるために、二十八願(道場樹の願)の成就文が引かれます。経文を引用すると長くなりますので、今は、その意を示された『浄土和讃』を一首挙げておきます。

七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり
十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし

(現代語訳)
七宝で飾られた講堂や、 さとりを開かれたところにある道場樹などは、 自力心のなくならない者を導くために、 仮に設けられた方便化身の浄土である。
この方便の浄土へも十方世界から往生する人々が際限がない。 このように講堂道場樹などの方便の手だてを作ってお導きくださる慈悲の阿弥陀如来を帰依礼拝せよ。


このように、親鸞聖人は、『化身土文類』において、要門を開かれた理由を述べられた後、十九願によって往生する浄土とは、方便化身の浄土であることを明らかにされます。

しかし、十九願のことを中心に書かれた『なぜ生きる2』には、化土往生について一切触れられていません。

『なぜ生きる2』5章p124には、三願転入の御文

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。 (化身土文類

が挙げられていますが、「双樹林下の往生」、「難思往生」、「難思議往生」の三往生については、
双樹林下の往生」・・・「十九願の通り実行して得られる結果。
難思往生」・・・「二十願の通り実行して得られる結果。
難思議往生」・・・「阿弥陀仏の浄土に往って仏に生まれること。
と注釈がなされ、「化土往生」という語は一切出てきません。

念のため、三願と三往生の関係をまとめておきますと、
十八願-難思議往生 -報土往生
十九願-双樹林下往生-化土往生
二十願-難思往生   -化土往生

です。親鸞聖人は、『浄土三経往生文類
でこの三往生について、端的に教えられています。

大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。


したがって、十八願、十九願、二十願は、独立した往生を誓われた願だと見られたのが親鸞聖人であったことが分かります。そして、『なぜ生きる2』の三往生についての注釈を補うと、十九願の通り実行して得られる結果は、化土往生であり、二十願の通り実行して得られる結果も、化土往生だということです。

ところが、『なぜ生きる2』第5章131-134頁では、『浄土和讃』大経讃から、

至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける


と三首挙げて、

 このように『和讃』でも、十八願(真実の願)に入れるための十九・二十の方便願だから、決して三願は無関係でなく、密接に関連していることを鮮明にされている。
 これこそが親鸞聖人の一大達見であり、希有の宣言なのだ。


と書いています。十九願→二十願→十八願と実行していくのだということを植えつけようとしていますが、十九願の行と信によって得られる結果は、上述のように、あくまで化土往生です

さらに、これらの御和讃には、親鸞聖人ご自身が、それぞれ
本願のこころ、第十八の選択本願なり
十九(じゅうく)の願のこころ、諸行往生なり
二十の願のこころなり、自力の念仏を願じたまへり
と頭註をなされています。

ここで、十九願は「諸行往生」を誓われた願、二十願は「自力の念仏」を誓われた願ということが分かります。そして、どこに往生するのかということについては、同じ『浄土和讃』大経讃の中に次のように教えられています。

安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり


「安楽浄土をねがひつつ他力の信をえぬひと」とは、十九願、二十願の人のことで、その人は「辺地・懈慢」という方便化身土にとどまると教えられています。このように御和讃でも、十九願、二十願の人は、化土往生とはっきり教えられています。

親鸞聖人が「化土往生」について教えられていることを、親鸞会にいると聞く機会はほとんどありません。『なぜ生きる2』にも、全く触れられていません。十八願、十九願、二十願が、独立した往生を誓われた願であるということは、余程親鸞会にとって都合の悪いことなのでしょう。

親鸞会では、因果の道理の話が徹底的になされます。

ダイコンのタネをまけば、ダイコンが生えてくる。
スイカのタネをまけば、スイカが生えてくる。
カボチャのタネをまけば、カボチャが生えてくる。
キュウリのタネをまけば、キュウリが生えてくる。

ダイコンのタネをまいて、スイカが生えてくることもなければ、
キュウリのタネをまいて、カボチャが生えてくることも絶対にない。


会員の皆様は、何度も聞いたことでしょう。ここで、同じく、

十九願の行信によっては、化土に往生する。
十九願の行信によって、報土に往生することは絶対にない。


であることを知らなければなりません。

親鸞聖人は『教行証文類』において、前5巻で報土に往生する因果を明らかにされ、それに対して方便化身土にとどまってしまう因果を『化身土文類』で明らかにされました。それは、方便の行と信を捨てて、真実の行と信によるべきであることを教えられるためです。

『なぜ生きる2』第5章では、上で引用した箇所に続いて

 畢生の大著『教行信証』六巻をみれば、明白であろう。
『教行信証』の前五巻には、弥陀の真実の願(十八願)の御心を明瞭にし、後の「化土巻」では、方便の願(十九願・二十願)の教えが明らかにされている。”方便より真実に入る”三願転入の教えが親鸞聖人の教導であることは、一貫してゆるがない。 
(134頁)


と書かれていますが、方便の行と信を実行して真実に入ることを教えられたのが『教行信証』ではなく、方便の行と信を捨てて真実の行と信によって報土往生を遂げるように教えられたのが『教行信証』です。
さらに、方便の行と信を実行して真実に入ることを教えられたのが三願転入の御文ではなく、方便化身土へ往生する因(十九願の行と信、二十願の行と信)を『化身土文類』で詳細に明らかにされた最後に、それらは捨てるべきものであることを、御自身の体験を通して教えられたのが三願転入の御文です。

”方便より真実に入る”を親鸞会では、「方便を実行して真実に入る」と理解していますが、「方便を捨てて真実に入る」としなければなりません。

ちなみに、『なぜ生きる2』では、6章143-144頁に、『化身土文類』真門釈

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。
(現代語訳)
この五濁の世の出家のものも在家のものも、速やかにこの上ない功徳をまどかにそなえた真門に入って、難思往生を願うべきである。

を引用していますが、「難思往生」の語があるにも関わらず、以下のように化土往生については全く触れていません。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。
 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。
 以下は、その文証である。
「それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)
 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。


すみやかに真門に入れとの親鸞聖人のお勧めですから、決して十九願の勧めではありません。「十九の願から二十願に進んでおくれ」ではなく、「速やかに十九願を捨てて、二十願に入りなさい」との仰せです。

そして、「十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよ」の励ましが幾たびもある書いていますが、そんな親鸞聖人のお言葉は一体どこにもあるのでしょうか?この「折れず曲がらず」が、十九願を実行してとか、十九願の通り進んでという意味なのでしょうが、十九願を実行するように勧められた親鸞聖人のお言葉はどこにも存在しません。その証拠に、二十願を勧められたお言葉を出して、何とか誤魔化そうとしているだけです。「十九願を実行して二十願に進め」という根拠があれば出しているはずですが、出せないということが、そんな根拠がないことの何よりの証拠です。
(『なぜ生きる2』に出ている根拠が十九願を勧められた根拠であると勘違いしている会員さんもいるかもしれませんので、順次その誤りについて書いていきたいと思います。)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/184-b5c3460e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。