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『なぜ生きる2』を読む(4)-「十九願、二十願の者は大利を失い、十八願の者は大利を得」と比較して説くことで、十九願、二十願を誡められ、十八願を勧められたのが親鸞聖人

『なぜ生きる2』は、テーマ自体が親鸞聖人の教えに真っ向から反した書ですから、その中に書かれている文章も間違いだらけです。「はじめに」に

 思えば、親鸞聖人の教えの特徴の中の特徴は、「大悲の願船の厳存」と「その乗船の道程」を解明されたところにある。
 至れりつくせりの助っ人たちの協力を賜り、遅ればせながらこの度『なぜ生きる2』をお届けすることになった。
「大悲の願船に乗ずる道のり」は、善導大師は「二河白道」の譬喩で説き、親鸞聖人は阿弥陀仏の三つの本願で明らかにされている。永遠の相を帯びてゆるぎない、「三願転入」の教導である。
 本書は特に聖人の「三願転入」のご指南を奉じて、些少なりとも要望に応えたいと思う。


と書かれているように、「大悲の願船に乗ずる道のり」が、『なぜ生きる2』のテーマですが、阿弥陀仏の十八願に入る道のり・道程を衆生の側から語るところが、親鸞聖人が明らかにされた「本願力回向」「他力回向」の教えに反しているのです。

親鸞会からの情報にしか触れない会員さんは、親鸞会で提示される根拠によって、「大悲の願船に乗ずる道のり」、すなわち「親鸞会流の三願転入の教え」が間違いのないものと思い込まされてしまっていますが、誠に残念なことです。この誤った教義を信じている限りは、永久に救われることはありません。「親鸞会流の三願転入の教え」とは、自力の勧めだからです。

また、親鸞会は、「親鸞会流の三願転入の教え」を主張するにあたり種々の根拠を提示していますが、それらは、自らの主張に合うように親鸞聖人のお言葉を切り取ってもってきて、都合のよいように解釈をしているに過ぎません。しかしながら、親鸞聖人が教えられたことそのものを知りませんと、それに気が付くことはできません。

そこで、親鸞聖人の教えられたことを知り、親鸞会の教えの誤りに気付いていただくために、この『なぜ生きる2』を読むシリーズでは、『化身土文類』の流れに沿って親鸞聖人のお言葉を示していき、提示した箇所に関する『なぜ生きる2』の誤りを指摘していく予定です。

さて、前回の記事では、十九願の往生は化土往生であることを、『化身土文類』に引かれた道場樹の願の成就文をきっかけに、説明しました。親鸞聖人は、それに続いて、『大経』の胎化得失の文を引かれます。

またのたまはく(大経・下)、「それ胎生のものは、処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにして、もろもろの快楽を受くること忉利天上のごとし。またみな自然なり。
そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁あつてか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。
仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑惑の心をもつて、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。 しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず。このゆゑにかの国土にはこれを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし、かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに、その胎生のものはみな智慧なきなり〉と。{乃至}
仏、弥勒に告げたまはく、〈たとへば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あり。種々に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなはちかの獄のうちに内れて、繋ぐに金鎖をもつてせん〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈このもろもろの衆生、またまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。{乃至}もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離るることを求めん。{乃至}
弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす〉」と。{以上抄出}

(現代語訳)
 また次のように説かれている(無量寿経)。
 「胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中で、忉利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである。
 そのとき弥勒菩薩がお訪ねした。<世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか>
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<人々の中には、本願を疑う自力の心でさまざまな功徳を積み、その国に生れたいと願うものがいる。そしてまた、この上なくすぐれた無量寿仏の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望み、善の本である名号を称えて、無量寿仏の国に生れたいと願う。これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。(中略)弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っている >(中略)
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。<たとえば転輪聖王が七宝でできた牢獄を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、さまざまな旗がかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その牢獄の中に入れられて黄金の鎖でつながれる>(中略) 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿に生れるのである。(中略)これらのものは、仏の智慧を疑った罪を知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願う。(中略)
 弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである>」


このお言葉に基づいて、
(1)十九願、二十願の者は「大利を失す」と釈尊、親鸞聖人が教えられていること
(2)十九願、二十願の者は、仏智疑惑の者であり、十八願を疑っているものであること
(3)十九願、二十願の者も、化土にて、仏智疑惑の罪を知り、その罪を改め仏智不思議を信ずれば、報土往生を遂げること
という点を説明し、『なぜ生きる2』の誤りを指摘したいと思います。

まず、「(1)十九願、二十願の者は「大利を失す」と釈尊、親鸞聖人が教えられていること」についてです。

上で引いた『大経』のお言葉では、胎生化土往生)と化生報土往生)の区別があることが示され、最初に、仏智を疑いながら様々な善を修め阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願う者(十九願の者)は、胎生(化土往生)であることが説かれています。そして、そのような者は、「かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず」であると、胎生(化土往生)の失が説かれます。さらに、結びには、「菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失す仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである)」と仰っています。

二十願の者も同じです。『化身土文類』には、真門釈で、二十願文に続いて、上で紹介した
またのたまはく(同・下)、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と(化身土文類
を引かれています。

つまり、二十願の者も、十九願の者同様に、胎生(化土往生)であり、大利を失すのです。

一方、『大経』には、この「大利を失す」者に対して、「大利を得」る者が流通分に説かれており、親鸞聖人は『行文類』の行一念釈に引かれています。

ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。
(現代語訳)
だから『無量寿経』に説かれている。
 「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<もし、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、わずか一声念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである>」


このお言葉から明らかなように、「大利を得」る者とは、十八願の者のことです。

このように、『大経』の上でも、『教行証文類』の上でも、大利を得る者と、大利を失す者が区別して教えられており、大利を失す十九願、二十願は誡められていて、大利を得る十八願が勧められているのです。これが、『大経』と『教行証文類』全体の大きな構造です。

また、『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』の三帖和讃も同じ構造をしています。三帖和讃の冠頭、つまり『浄土和讃』の冠頭に、

弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ


と、報土往生を遂げる十八願についてのご和讃と、化土往生の失が示された二十願についてのご和讃が置かれており、十八願と二十願を対比して教えられています。そして、その教えは、三帖和讃全体を貫いており、『正像末和讃』の終わりに置かれた「誡疑讃」で、十九願、二十願の失が説き明かされ、それらの願は誡められているのです。

ここで、前回と今回の話をまとめますと、
 十八願、十九願、二十願は、独立した往生を誓われた願であり、
・十八願の者      -報土往生(化生)-大利を得る
・十九願、二十願の者-化土往生(胎生)-大利を失す

となります。

親鸞聖人が、十九願、二十願について説かれたのは、上述のように、十九願、二十願の者は、化土往生であり、大利を失すということを示し、誡めるためだということをよく知っていただきたいと思います。

ところが、 『なぜ生きる2』11章223-224頁には、以下のように書かれています。

 こんなイロハの放言も、あるに聞く。
”弥陀の十八願に救われるまでは、方便の教えは障害になる、聞かぬがよい”
 もしそうだとすれば、弥陀は方便の「修諸功徳の願」は隠していられたはず。
 釈迦も『観無量寿経』や『阿弥陀経』を説かれなかったであろう。
 聖人は、十九願や二十願を『教行信証』に記されるはずもない。
 蓮如上人も雑行・雑修を説かれはしなかったであろう。

 これらはすべて十方衆生(すべての人)を、大悲の願船に乗せる弥陀の方便である。
 説かれているのは必要不可欠であるからだ。
 弥陀も釈迦も聖人も、真実の重さを自覚しての方便だったのである。
 その方便を大悲の願船に乗るまで不要というにいたっては、もう質の悪い冗談と聞き流すしかない。


親鸞会では、「必要だから説かれたのだ。必要なかったら説かれるはずがない」と言いますが、「必要」ということについても、いろいろな必要性があります。勧める必要があることもあれば、誡める必要があることもあります。「説かれている」=「勧められている」という思考は、短絡的思考と言わざるを得ません。

このシリーズをここまで読まれた方ならば、お分かりだと思いますが、「十九願・『観経』の定散二善の教えは、聖道門の人を浄土門に導くために説かれたものであり、その往生は化土往生であり、化土往生の者は大利を失すということを伝えるため」に親鸞聖人は十九願や『観経』について『教行信証』(『教行証文類』)に記されているのです。もちろん、勧めるためではなく、誡めるためです。

ですから、既に浄土門の中の真の教えである親鸞聖人の教えを聞き、その教えによって報土往生を願う人にとっては、十九願・『観経』の定散二善は不要だということです。

(2)、(3)については、次回の記事で取り上げます。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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