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『なぜ生きる2』を読む(5)-『なぜ生きる2』の「仏願の生起本末」「五劫思惟」の説明の誤り

『なぜ生きる2』を読む(4)の続きです。
今回は、「(2)十九願、二十願の者は、仏智疑惑の者であり、十八願を疑っているものであること」を縁に、『なぜ生きる2』の「仏願の生起本末」、「五劫思惟」の説明の誤りについて書きます。

『化身土文類』に引かれている『大経』の胎化得失の文では、
仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。
と「仏智疑惑」という語が出てきます。前回も紹介した『浄土和讃』に、

誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ


とありますように、仏智疑惑とは、誓願不思議を疑うこと、すなわち本願(十八願)を疑うことに他なりません。

前回のまとめに、この内容を加えると、
・十八願の者      -明信仏智-報土往生(化生)-大利を得る
・十九願、二十願の者-仏智疑惑-化土往生(胎生)-大利を失す

となります。すなわち、仏智疑惑の失を示されることで、仏智疑惑を誡め、仏智の顕現である十八願を信ずることを勧めておられるのです。

親鸞会の人によく知っていただきたいことは、親鸞聖人が、疑いとか疑惑といった場合、それは十八願に対する疑いをいうということです。疑いや疑惑とは、決して、十九願や二十願に対する疑いではありません。また、十八願、十九願、二十願の三願に対する疑いでもありません。

つまり、『なぜ生きる2』第9章に引用されている、本願成就文の「聞其名号」を解釈された親鸞聖人のお言葉
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(信文類
「仏願の生起本末」も十八願についての生起本末です。

『なぜ生きる2』の183頁には、重要なキーワードとして、
生起=極悪人の十方衆生
本 =阿弥陀仏の十八願
末 =阿弥陀仏の十九願・二十願

と書かれていますが、これが、とんでもない誤りなのです。

上の解釈が誤っていることは、同じく「聞其名号」を解釈された『一念多念証文』のお言葉と比べれば、よりハッキリします。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

 「仏願の生起本末聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり
=「本願ききて疑ふこころなき「聞」といふなり
ですから、その対応関係を見れば、「仏願の生起本末」とは、本願(十八願)のことであることは明らかです。

そして、「仏願の生起本末」とは、簡潔にいうと、
「生起」:法蔵菩薩が本願をおこさねばならなかった理由ということで、私たちは迷いの世界を離れ出るための行ができず、限りなく迷いの世界を流転していること
「本」:因ということで、法蔵菩薩が五劫思惟して誓願を建てられ、その誓願を成就するために兆載永劫のご修行をなされた願行のいわれのこと
「末」:果ということで、その願と行が成就し、願の通りに十方衆生を往生成仏させることのできる本願力を完成して阿弥陀仏となられ、衆生を育て導き、名号を与えて衆生を摂取していかれる阿弥陀仏の救済活動のこと

です。

今回の記事では、特に、仏願の生起本末の中でも「生」にあたる「五劫思惟」の内容について触れたいと思います。
なぜならば、『なぜ生きる2』の中で誤った解釈が繰り返し書かれており、意図的に、読者に誤解を植えつけていると感じられるからです。

なお、仏願の生起本末の具体的な内容に関しては、過去の記事
阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれたのか?
「仏願の生起・本末を聞く」ということと親鸞会で聞かされていること
などに書いていますので、そちらを参照してください。

『なぜ生きる2』の中での「五劫思惟」の説明は以下の通りです。

 自覚しようとしないとにかかわらず、弥陀の方便を通らずして誰ひとり、真実・無碍の世界には出れないのである。
 それは五劫思惟の末に、弥陀が敷かれた路線であるからだ。(6章、147頁)

 そんなウヌボレ屋の十方衆生(すべての人)を、十八願・真実(絶対の幸福)まで、どう誘導し救済するか。
 弥陀は五劫の思惟の末、建てられたのが十九・二十の方便願である。(9章、188頁)

  弥陀は五劫思惟の末に、”善ができると思うならやってみよ”と、釘を鉄板にハンマーで打ち込むような、やるせない慈悲心で十八願・真実へ誘引されるのが十九・二十の方便願である。(10章、193頁)

 いかに「自力」を捨てさせ「他力」に誘引するか、弥陀が五劫の思惟をなされ、真・仮の三願を建てられたのは、そのためだった。(13章、260頁)

 こんな十方衆生を真実の十八願まで、どう導き救おうか。
 弥陀が五劫の思惟をなされた末に、一時相手の程度(他意)に合わせて(随)誘導する十九・二十の願を建てられたのだ。(16章、302頁)


つまり、『なぜ生きる2』では、「五劫思惟の末、十八願に導くために建てられたのが十九・二十の方便願だ」と繰り返されています。

しかし、この五劫思惟も、十八願のことを指して、善知識方は説かれています。『なぜ生きる2』のような説明をされた善知識方は皆無であり、『なぜ生きる2』の説明は根拠のない妄言だといわざるを得ません。

「五劫思惟」の内容を、よく知っていただくために、お聖教上のお言葉をいくつか示したいと思います。

まずは『選択本願念仏集』の本願章です。
本願章では、標章の文として「弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文」と示された後、『大経』の十八願文、善導大師の 『観念法門』 の本願加減の文 、『往生礼讃』 の自解本願文を続けて引かれた後、『大経』の五劫思惟のお言葉、『大阿弥陀経』のお言葉が引かれます。

問ひていはく、弥陀如来、いづれの時、いづれの仏の所にしてかこの願を発したまへるや。

答へていはく、『寿経』(大経・上)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈乃往過去久遠無量不可思議無央数劫に、定光如来世に興出したまひて、無量の衆生を教化し度脱して、みな道を得しめて、すなはち滅度を取りたまへり。次に如来まします、名づけて光遠といふ。 [乃至]次を処世と名づく。かくのごとき諸仏[五十三仏なり。]みなことごとくすでに過ぎて、その時に次に仏まします、世自在王如来と名づく。
時に国王あり。仏の説法を聞きて心に悦予を懐きて、尋いで無上正真道の意を発し、国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる。号けて法蔵といふ。高才勇哲にして世と超異せり。世自在王如来の所に詣でたまふ。{乃至}
ここに世自在王仏、すなはち〔法蔵比丘の〕ために広く二百一十億の諸仏の刹土の人天の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとくこれを現与したまふ。時にかの比丘、仏の所説の厳浄の国土を聞き、みなことごとく覩見して、超えて無上殊勝の願を発す。その心寂静にして、志所着なく、一切世間によく及ぶものなし。 五劫を具足して荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取しき〉と。

阿難、仏にまうさく、〈かの仏の国土の寿量いくばくぞや〉と。

仏ののたまはく、〈その仏の寿命四十二劫なり。時に法蔵比丘二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取しき〉」と。{以上}

『大阿弥陀経』(上)にのたまはく、「その仏(世自在王仏)すなはち二百一十億の仏の国土中の諸天・人民の善悪、国土の好醜を選択す。〔法蔵比丘の、〕心中の所欲の願を選択せんがためなり。楼夷亘羅仏[ここには世自在王仏といふ。] 経を説きをはりて、曇摩迦[ここには法蔵といふ。]すなはちその心を一にして、すなはち天眼を得、徹視してことごとくみづから二百一十億の諸仏の国土のなかの諸天・人民の善悪、国土の好醜を見、すなはち心中の所願を選択して、すなはちこの二十四の願経を結得す」と。[『平等覚経』またこれに同じ。]


(現代語訳)
問うていう。阿弥陀如来は、いつの時、どの仏のみもとで、この願をおこされたのか。

答えていう。《無量寿経》に説かれてある。世尊は阿難に仰せられる。『今を去ること量り知られぬ久遠の大昔に、錠光と名づける如来が出られ、無数の衆生を教化してことごとく道を得させ、やがておかくれになった。つぎに光遠と名づける如来が出られた。中略 つぎに処世と名づける。このような諸仏 五十三仏である が相次いでお出ましになって、同じく衆生済度の後、おかくれになった。そのつぎに出られた仏を世自在王如来と名づける。
時にひとりの国王があって、世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこで無上菩提の心をおこし、国も王位も捨てて出家沙門の身となり、宝蔵と名のられた。才智すぐれ志願かたく、はるかに常の人に超えていた。この法蔵比丘が世自在王仏のみもとにいたり、中略 かくて世自在王仏は法蔵比丘のために、ひろく二百一十億の諸仏の国々の優劣と、そこに住んでいる人たちの善悪を説き、かつ、比丘の望みにまかせて、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。^ときに法蔵比丘は世自在王仏から浄らかな国土について承り、かつ、それらの国のさまを親しく拝見して、ここにこの上もなくすぐれた願いをおこされた。その心はきわめて静かに、その志は少しの執着もなく、すべて世の中でこれに及ぶものがないという浄らかなありさまで、五劫のながいあいだ思惟をめぐらして浄土を荘厳する清浄の行を摂取せられたのである。』

ここで阿難がお尋ね申しあげた。『世自在王仏の御寿命は、いったいどれほどでしょうか。』

世尊が仰せられるには、『かの仏の寿命は四十二劫であった。』と、さらにお続けになって、『法蔵比丘はこうして二百一十億の諸仏の浄土のすぐれたところと、その清浄の行を摂取せられたのである。』

また《大阿弥陀経》に説かれてある。その仏 (世自在王仏) は、二百一十億の諸仏の国の中の人・天の善悪、国土の好醜を選択して、菩薩 (宝蔵) のために、心中に欲するところの願いを選択せしめられた。楼夷亘羅仏 (訳して世自在王仏という) の経を説かれることが終わって、曇摩迦 (訳して宝蔵という) は禅定に入り、天眼通を得て視とおし、みずから二百一十億の諸仏の国の中の人天の善悪、国土の好醜を見て、そこで心の中に願うところを選択し、そうしてこの二十四の願を立てられたのである。」《平等覚経》もまたこれと同じ。


ここでよく知っていただきたいことは、上記の『大経』のお言葉の中に、「五劫を具足して荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取しき五劫のながいあいだ思惟をめぐらして浄土を荘厳する清浄の行を摂取せられた)」とありますが、この中の「摂取」を、『大阿弥陀経』の「選択」のことであると、次のように法然聖人は解釈されたことです。

このなか、「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり。『大阿弥陀経』の選択の義かくのごとし。 『双巻経』(大経・上)の意また選択の義あり。いはく、「二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す」といふこれなり。選択と摂取とその言異なりといへども、その意これ同じ。 しかれば不清浄の行を捨てて、清浄の行を取る。上の天・人の善悪、国土の粗妙、その義またしかなり。これに准じて知るべし。

(現代語訳)
この中に「選択」というのは、すなわち取捨の義である。二百一十億の諸仏の浄土の中で、人・天の悪を捨てて人・天の善を取り、国土の醜いのを捨てて国土の好ましいのを取るのである。《大阿弥陀経》の選択の義はこの通りである。《双巻経》(大経) の意もまた選択の義がある。すなわち「二百一十億の諸仏の浄土のすぐれたところと、その清浄の行を摂取せられた」と説かれてあるのがこれである。選択と摂取と、その言葉は異なるけれども、その意味は同じである。そうであるから、清浄でない行を捨てて清浄の行を取るのである。上の人・天の善悪、国土の粗妙についても、その義は同様である。これに準じて知るべきである。

『大阿弥陀経』の「選択」とは、「取捨の義」であるといわれています。つまり、「選び取り、選び捨てる」ということです。そして、『大経』の「摂取」も、言葉は違うが意味は同じであると示されています。

この後、第一願から第四願まで、それぞれの願について何を選び取り、何を選び捨てられたのかを示された後、第十八願について、何を選び取られ、何を選び捨てられたのかが説かれています。第十八願について引用します。

第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。あるいは持戒をもつて往生の行となす土あり。あるいは忍辱をもつて往生の行となす土あり。あるいは精進をもつて往生の行となす土あり。あるいは禅定をもつて往生の行となす土あり。あるいは般若[第一義を信ずる等これなり。]をもつて往生の行となす土あり。あるいは菩提心をもつて往生の行となす土あり。あるいは六念をもつて往生の行となす土あり。あるいは持経をもつて往生の行となす土あり。あるいは持呪をもつて往生の行となす土あり。あるいは起立塔像、飯食沙門および孝養父母、奉事師長等の種々の行をもつておのおの往生の行となす国土等あり。あるいはもつぱらその国の仏の名を称して往生の行となす土あり。 かくのごとく一行をもつて一仏の土に配することは、これしばらく一往の義なり。再往これを論ぜば、その義不定なり。あるいは一仏の土のなかに、多行をもつて往生の行となす土あり。あるいは多仏の土のなかに、一行をもつて通じて往生の行となす土あり。かくのごとく往生の行、種々不同なり。
つぶさに述ぶべからず。すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。


(現代語訳)
第十八の念仏往生の願とは、かの諸仏の国土の中において、あるいは布施をもって往生の行とする国土があり、あるいは持戒をもって往生の行とする国土があり、あるいは忍辱をもって往生の行とする国土があり、あるいは精進をもって往生の行とする国土があり、あるいは禅定をもって往生の行とする国土があり、あるいは智慧 第一義諦を信ずるなどがこれである をもって往生の行とする国土があり、あるいは菩提心をもって往生の行とする国土があり、あるいは六念をもって往生の行とする国土があり、あるいは経を読むことをもって往生の行とする国土があり、あるいは呪文をとなえることをもって往生の行とする国土があり、あるいは塔を立て仏像を作り、出家に食物を供養し、および父母に孝養をつくし、師匠や目上の人につかえるなどのいろいろな行をもって、それぞれ往生の行とする国土などがあり、あるいはその国の仏の名を称えて往生の行とする国土がある。このように一つの行をもって一つの仏土に配するのは、これはしばらく一往の義である。更に詳しくいえば、その義は不定である。あるいは一つの仏土の中に多くの行をもって往生の行とする国土があり 、あるいは多くの仏土の中に一つの行をもって共通して往生の行とする国土がある。このとおり往生の行は種々不同であって、つぶさに述べることができない。
そこで、今は前の布施・持戒をはじめとして父母に孝養をつくすなどの諸行を選び捨てて、専ら仏の名号を称えるのを選び取られるから選択というのである。


さて、法蔵菩薩は、第十八願において何を選び捨てて、何を選び取られたのかお分かり頂けたでしょうか?
一切の諸行を選び捨てて、念仏の一行を往生の行として選び取られたのです。

この法然聖人の教えを承けて、親鸞聖人は、『行文類』で念仏と諸善を比挍対論する中で
選不選対」、すなわち、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法であると教えられました。

ところが、この法蔵菩薩が選び捨てられた諸善を勧める一方で、念仏をほとんど説かない、勧めないのが親鸞会です。『なぜ生きる2』もそうです。諸善の勧めばかりです。

親鸞聖人は、この第十八願を「この大願を選択本願と名づく」(信文類)と仰り、「選択本願は浄土真宗なり、(中略)浄土真宗は大乗のなかの至極なり。」(親鸞聖人御消息)と明らかにされました。つまり、浄土真宗、親鸞聖人のみ教えとは、第十八願の法義です。その第十八願において、法蔵菩薩が五劫思惟の末、何を選び取られ、何を選び捨てられたかも知らず、その内容をねじ曲げ、浄土真宗、親鸞聖人のみ教えに真っ向から反しているのが親鸞会であり、『なぜ生きる2』であるということを知っていただきたいと思います。

『選択本願念仏集』では、この後、一切の諸行を選び捨て、念仏一行を選び取って往生の本願としたことについての理由が説かれていますが、それについては次回の記事で書きます。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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