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『なぜ生きる2』を読む(6)―『なぜ生きる2』の「仏願の生起本末」「五劫思惟」の説明の誤り(2)

『なぜ生きる2』を読む(5)の続きです。前回の記事では、『選択本願念仏集』で、第十八願において、法蔵菩薩は一切の諸行を選捨して、称名念仏の一行を選取されたと説かれているというところまで書きました。

そして、一切の諸行を選び捨て、念仏一行を選び取って往生の本願とした理由を、法然聖人は、「一には勝劣の義、二には難易の義なり。」(選択本願念仏集)と2つ挙げておられます。

まず、勝劣の義についてです。『選択本願念仏集』には次のように説かれています。

初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。ゆゑに名号の功徳もつとも勝となす。余行はしからず。 おのおの一隅を守る。ここをもつて劣となす。
たとへば世間の屋舎の、その屋舎の名字のなかには棟・梁・椽・柱等の一切の家具を摂せり。棟・梁等の一々の名字のなかには一切を摂することあたはざるがごとし。これをもつて知るべし。
しかればすなはち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。ゆゑに劣を捨てて勝を取りてもつて本願となしたまへるか。

(現代語訳)
初めに勝劣とは、念仏は勝れ、ほかの行は劣っている。そのわけはどうかというに、名号は万(よろず)の徳の帰するところである。ゆえに弥陀一仏の持っておられる四智・三身・十力・四無畏などの内に一切の証得せられた徳と、相好・光明・説法利生 (法を説いて衆生を利益する) などの外に働く一切の功徳とが、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂まっている。ゆえに名号の功徳が最も勝れているのである。ほかの行はそうではなくておのおの一部分の功徳だけである。そこで劣っているとするのである。
たとえば、世間の屋舎(いえ)という名の中には棟(むなぎ)・梁(はり)・椽(たるき)・柱など家の全部の道具を摂めるけれども、棟や梁などの一々の名の中には全部を摂めることができないようなものである。これをもって知るべきである。
そういうわけであるから、仏の名号は、ほかのすべての功徳に勝れている。ゆえに劣を捨て勝を取って本願とせられたのであろう。


ここで、法然聖人は、念仏が勝れている理由を、阿弥陀仏の名号には一切の功徳がおさまっているからだと、名号の功徳が他の一切の功徳に勝れているという点から説明されています。

親鸞聖人も同様に、『行文類』大行釈に、
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
(現代語訳)
大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。
と、名号に諸の功徳がおさまっていることを説かれています。

これらを承けて、蓮如上人は、『御文章』二帖目第九通に
そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。 しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり 。
と教えられました。南無阿弥陀仏には、一切の諸神・諸仏・菩薩、一切の善がおさまっているのだから、何の不足があって諸善にこころをとどめるのであろうかと、諸善にこころをとどめることを誡めておられます。もちろん、「阿弥陀如来をたのみたてまつるについて」と最初に仰っていますから、阿弥陀仏におまかせする、救われるにあたってのことです。つまり、阿弥陀仏の十八願の救いには善は不要ということです。

一方、『なぜ生きる2』に書かれている善の勧めは、読む者に対して、善にこころをかけるよう勧めていることになりますから、蓮如上人とは正反対のことを教えていることになります。

『なぜ生きる2』11章225-226頁には、
 阿弥陀仏の十九願の諸善万行は、大悲の願船に乗せる(十八願の無碍の一道へ出させる)ための弥陀の方便であることは、釈迦も祖師も蓮師も一貫している教訓だ。
 的々として示すお聖教の明証は、いずれも弥陀の勧める善だから大いに努めるよう教導されたものばかりである。

と書かれていますが、これも大間違いです。「弥陀の勧める善だから大いに努めるよう教導」された箇所など、親鸞聖人の書かれたものにも、御文章にも、どこにもありません。法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人は一貫して、南無阿弥陀仏の名号は、万善万行の総体と教えられ、阿弥陀仏の十八願の救いには善は不要であることを明らかにされています。大元を辿れば、法蔵菩薩が、第十八願において、一切の諸行を選び捨てられておられるのですから、当然なことです。

『なぜ生きる2』では、上の引用箇所に続いて、
 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。
 善因を蒔かないから善果は来ない。やりたい放題の悪因は、この世の地獄を現出する。
 因果の道理は厳粛である。
 善の勧めを非難する、外道より浅ましい現状は、真宗の末期を見るようだ。
 まったく阿弥陀仏の本願を知らず、「悪人正機」と「雑行」の誤解に外ならない。

と書かれています。「大悲の願船に乗せる(十八願の無碍の一道へ出させる)」ということを述べていたのに、「善因を蒔かないから善果は来ない。やりたい放題の悪因は、この世の地獄を現出する。」と、この世のことを混ぜて、「善の勧めを非難する、外道より浅ましい現状」と書き、親鸞会のいう善の勧め、『なぜ生きる2』に書かれている善の勧めを非難している者が、この世のことでも善をする必要がないといっているかのような刷り込みをしています。

そもそも親鸞会批判者は、十八願の救いには善は不要といっているのであり、生活面で善は不要などとは決して言ってはいません。

「雑行」については、このシリーズでも『化身土文類』の雑行釈のところで解説する予定ですが、簡潔に言うと、「雑行」とは阿弥陀仏の浄土に往生しようとして修める諸善のことであり、そもそも単に日常生活で約束を守るとか、親切をするというようなことは「雑行」ではありません。ただし、阿弥陀仏の浄土に往生しようとして日常生活で約束を守る、親切をするならば、それは「雑行」です。

親鸞会では、生死出離の話と、日常生活の話をごちゃまぜにして、「雑行」の説明をすることがしばしばみられますが、『なぜ生きる2』でも、上記のようにそのような箇所がありますので注意して下さい。

次は、難易の義です。続いて『選択本願念仏集』を引用します。
次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。
このゆゑに『往生礼讃』にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、観をなさしめずしてただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるや。
答へていはく、すなはち衆生障重く、境は細く心は粗し。識颺り神飛びて、観成就しがたきによるなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちにもつぱら名字を称せよと勧めたまふ。まさしく称名の易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」と。[以上]
また『往生要集』(下)に、
「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。 もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。 ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

(現代語訳)
次に難易の義とは、念仏は修め易く諸行は修め難い。
それゆえ《往生礼讃》にいわれてある。
問うていう。どうして観察の行を勧めないで、ただもっぱら名号を称えさせられるのか。これにはいかなる意味があるのか。
答えていう。それは、衆生が障りが重く、観ずるところがこまやかであるのに、心はあらく、想いが乱れ飛んで、観察の行が成就しがたいからである。そういうわけで、釈尊はこれを哀れみくださって、ただもっぱら名号を称えることを勧められたのである。これはまさしく称名の行がたやすいから、これを相続して往生することができるのである。
また《往生要集》に、
問うていう。すべての善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答えていう。いま念仏を勧めることは、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも低いものでも、行住座臥の区別なく、時・処やいろいろの場合を論ぜず、これを修めるのにむずかしくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏に及ぶものはないからである、といわれている。
故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。
そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多い。もし、多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多い。もし、戒律を持たもつことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者は甚だ多い。 そのほか の諸行はこれに準じて知るべきである。
故に、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。そういうわけであるから、弥陀如来は法蔵比丘の昔に平等の慈悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。

難行である諸善をもって本願としたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多い、そこで、法蔵菩薩は、あまねく一切の衆生を救うために、易行である称名念仏の一行をもって本願とされたのでした。
この法蔵菩薩の御心に反して、難行である諸善を勧めているのが、『なぜ生きる2』であり、親鸞会なのです。

ここまでで、『大経』の「五劫を具足して荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取しき」の「摂取」について、『選択本願念仏集』では、第十八願において、法蔵菩薩は一切の諸行を選捨して、称名念仏の一行を選取されたと説かれていることを明らかにしました。『なぜ生きる2』に見られるような、「五劫思惟の末に、十八願に導くために十九・二十を建てられた」という意味はどこにも見出すことはできませんでした。

次に、親鸞聖人が、御同行に拝読を勧められた『唯信鈔』では、「五劫思惟」の内容をどのように教えられているのかを示します。
二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。 これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。
そもそも名号をとなふるは、なにのゆゑにかの仏の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏に成りたまはざりしむかし、法蔵比丘と申しき。そのときに仏ましましき、世自在王仏と申しき。法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまゐりて申したまはく、「われすでに菩提心をおこして清浄の仏国をまうけんとおもふ。 願はくは、仏、わがためにひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」と。そのときに世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人・天の善悪、国土の粗妙をことごとくこれを説き、ことごとくこれを現じたまひき。
法蔵比丘これをききこれをみて、悪をえらびて善をとり、粗をすてて妙をねがふ。たとへば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず、三悪道なき世界をば、これをねがひてすなはちとる。自余の願もこれになずらへてこころを得べし。このゆゑに、二百一十億の諸仏の浄土のなかより、すぐれたることをえらびとりて極楽世界を建立したまへり。たとへば、柳の枝に桜のはなを咲かせ、二見の浦に清見が関をならべたらんがごとし。これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。かくのごとく、微妙厳浄の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。 国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
「如来尊号甚分明 十方世界普流行  但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
といへる、このこころか。
さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。
「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来  不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才  不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深  但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
このこころか。これを念仏往生とす。

上のお言葉から、五劫思惟の内容をみてみますと、
・二百一十億の諸仏の浄土の中から、勝れていることを選び取られて極楽世界を建立なされた
・極楽世界がいかに素晴らしいところであっても、衆生が往生し難ければ大悲大願の意趣に違ってしまうで、一切の善悪の凡夫がひとしく往生できるように名号を称えることを往生の因としようと、第十七願に、諸仏に我が名を誉め称えさせようという願をおこされた
・その次に、第十八願に、念仏を称えるものを導こうという願を建てられた

と仰っています。

一言で言うと、法蔵菩薩は、五劫思惟の末、名号で一切の衆生を導こうとされたということになります。
そして、ここで具体的に挙げられている願は、第十七願第十八願です。

『なぜ生きる2』6章148頁には、
 三願転入は、弥陀が十方衆生(すべての人)を徹見されて、これしかない救いの道を敷設されたものなのだ。
 弥陀の五劫思惟の診断に狂いはない。
 唯一最短の道であることは歴然である。

と書かれていますが、弥陀の五劫思惟の内容が、三願転入であるというお聖教上の根拠はどこにも存在しません。また、そもそも、法然聖人も聖覚法印も、五劫思惟の内容を説明されるとき、十九願も二十願も一切挙げておられません。根拠が全くない「五劫思惟の内容=三願転入」ということを、『なぜ生きる2』の中では繰り返し繰り返し書くことによって、読者に刷り込み、思い込ませているだけです。まことにおそろしいことです。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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