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『なぜ生きる2』を読む(7)-阿弥陀仏は「19願→20願→18願」ではなく、「17願→18願」で名号を与えようとされている

親鸞会の指導に従っていると、お聖教のお言葉のほんの一部分しか拝読しない状態に陥ってしまいます。法話等で話されるお言葉、『教学聖典』に掲載されているお言葉くらいしか知らず、その前後に書かれているお言葉に気に留めることもなく、高森会長の解説に耳を傾けるのみです。実は、提示されたお言葉の前後を拝読すれば、それだけでも、親鸞会教義のおかしさに気が付くのですが。

さて『なぜ生きる2』を読む(6)の続きです。
前回の記事の最後では、『唯信鈔』のお言葉を挙げ、法蔵菩薩が、五劫思惟の末、名号で一切の衆生を導こうとされていることを説明しました。そして、そこで、具体的に挙げられていたのは、十七願十八願でした。

『なぜ生きる2』では、弥陀の願いは名号をすべての人に与えること以外になかったと以下のように書かれています。

 ゆえに弥陀の願いはただひとつ、名号(南無阿弥陀仏)を十方衆生に与えること以外になかったのだ。
『大無量寿経』に阿弥陀仏は、重ねてこう誓われている。
 私は遠い過去から、南無阿弥陀仏の大功徳を与えて、苦しみ悩める人たちを絶対の幸福に救い取る誓いを建てている。
また、
 私は南無阿弥陀仏を完成したのは、すべての人にその大功徳を施すためである。

 われ無量劫に於て、大施主と為りて、普く諸の貧苦を済わずば、誓いて正覚を成ぜじ (『大無量寿経』上巻)
 衆の為に法蔵を開き、広く功徳の宝を施す (『大無量寿経』上巻)  (8章174-175頁)


そして、次の9章は
 阿弥陀仏は十方衆生(すべての人)に「南無阿弥陀仏の名号を与えて救う」と誓われている。
 では、どうすれば名号(南無阿弥陀仏)を受け取り、大悲の願船に乗ずることができるのであろうか。(179頁)

と始まり、本願成就文を挙げて、その中の「聞其名号」のお言葉を解釈された親鸞聖人のお言葉「「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」を示し、『なぜ生きる2』を読む(5)で書いた同書183頁の
生起=極悪人の十方衆生
本 =阿弥陀仏の十八願
末 =阿弥陀仏の十九願・二十願

につなげて、十九願、二十願を通り、南無阿弥陀仏を受け取るのだと展開していきます。

ここで、南無阿弥陀仏を受け取るためには、十九願、二十願を通らなければならないという刷り込みがなされているのですが、これも大きな誤りです。そのことは、上で挙げた『なぜ生きる2』に引用されている『大経』の重誓偈のお言葉「われ無量劫に於て、大施主と為りて、普く諸の貧苦を済わずば、誓いて正覚を成ぜじ」の後を拝読すれば分かります。ここでは、前後も含めて引用します。

われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。 この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ無量劫において、大施主となりて、あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。

(現代語訳)
わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。 この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、 誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。


法蔵菩薩は、四十八願を建てた後、上記のように、重ねて3つのことを誓われました。
第1の誓いは、必ず仏のさとりを開き、先に建てた四十八願を満足させるという誓いです。
第2の誓いは、大施主となり、諸の苦しんでいる者を救いたいという誓いです。大いなる施しの主になるといっても、どのように施すのかがハッキリしませんので、それを次に誓われました。
第3の誓いは、我が名を全ての世界のすみずみにまで聞かしめるという誓いです。この誓いによって、第2の誓いではハッキリしなかった、どのように施すのかが、名号を聞かせて施す(与える)ことであると明らかになります。すなわち、名号を衆生に聞かせることが、名号を衆生に与えることであり、法蔵菩薩は、どのように名号を与えるのかについて、聞かせて与えると誓われているということが分かります。

そして。この第3の誓いが、十七願意です。
親鸞聖人は、この第3の誓いを非常に重視されました。

行文類』では、十七願に続いて、重誓偈のお言葉が次のように引かれます。

諸仏称名の願『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。{以上}
またのたまはく(同・上)、「われ仏道を成らんに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。つねに大衆のなかにして、説法獅子吼せん」と。{抄要}

(現代語訳)
諸仏称名の願(第十七願)は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になったとき、すべての世界の数限りない仏がたが、ことごとくわたしの名号をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」
また次のように説かれている(無量寿経)。
 「わたしが仏のさとりを得たとき、わたしの名号を広くすべての世界に響かせよう。もし聞えないところがあるなら誓って仏にはなるまい。人々のためにすべての教えを説き明かし、広く功徳の宝を与えよう。常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう」


まず、先ほどの第3の誓いを挙げ、重誓偈の中では離れているお言葉を、それに続けて引かれています。そうすることで、親鸞聖人は、名号を十方世界に聞かしめるということは、人々に南無阿弥陀仏という功徳の宝を施すことであり、それが阿弥陀仏の直々の説法であることを明らかにされています。

さらに、この名号を全ての人に聞かせて与えるという十七願の意を、親鸞聖人は『大経』の異訳のお言葉の中に確認されたのでした。
『行文類』では、『大経』の引文の後、『無量寿如来会』の重誓偈、『大阿弥陀経』の第四願、『平等覚経』の十七願が引かれます。今は、『大阿弥陀経』、『平等覚経』のお言葉を引用します。

『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(上)[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}
(現代語訳)
『大阿弥陀経』に説かれている。
「わたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えわたらせ、仏がたに、それぞれの国の比丘たちや大衆の中で、わたしの功徳や浄土の善を説かせよう。それを聞いて神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて、喜び敬う心をおこさないものはないであろう。このように喜びにあふれるものをみなわが浄土に往生させたい。わたしは、この願いを成就して仏となろう。もしこの願いが成就しなかったなら、決して仏にはなるまい」


『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。
(現代語訳)
『平等覚経』に説かれている。
「無量清浄仏は、<わたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えさせ、それぞれの仏がたに、弟子たちの中で、わたしの功徳や浄土の善さをほめたたえさせよう。そして、神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて喜びに満ちあふれるものをみなことごとく、わたしの浄土に往生させよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまい>と願われた。


『大阿弥陀経』の第四願、『平等覚経』の十七願は、『大経』の十七願と十八願を合わせた願になっています。それぞれのお言葉の下線部が『大経』の十七願に相当します。

どちらのお言葉も、全ての世界に名号を聞かしめるということが明らかに誓われています。そして、その誓いは、『大経』でいう十八願と密接な関係をもっていることも明らかになっています。いうなれば、『大経』の十七願と十八願はセットだということです。

今回の記事を通して、親鸞聖人が、『正信偈』に、
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
と書かれたお心を汲み取っていただければと思います。

今回の記事をまとます。阿弥陀仏はどのように南無阿弥陀仏の名号を与えようとされているのかというと、聞かせて与えようとされているのです。決して、十九願、二十願を通らせて与えようとされているのではありません。『なぜ生きる2』に書かれていること、親鸞会で説かれていることは根拠のないことですから、捨ててください。

そして、今回説明したように、今聞こえている南無阿弥陀仏は、私の口から出てくださる南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の直の説法です。阿弥陀仏は、「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず往生させる)」の声の仏様となって、私に届き、私に呼びかけて続けているのです。

善ができているのかという私の行為に心をかけるのでもなく、罪悪がどれくらい知らされているのかという我が機に目を向けるのでもなく、南無阿弥陀仏の如来の勅命を計らいをまじえずに聞きうけて頂きたいと念じております。
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