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『なぜ生きる2』を読む(8)-阿弥陀仏の善巧方便を十九願、二十願のこととする誤り

『なぜ生きる2』を読む(5)(6)(7)と、阿弥陀仏の五劫思惟の内容とそれに関連することについて、法然聖人、聖覚法印、親鸞聖人のお言葉を挙げてきました。今回は、五劫思惟について教えられた『御文章』のお言葉、それに関連して阿弥陀仏の善巧方便とは何かについて書きます。

まず、『御文章』5帖目8通、五劫思惟の章のお言葉です。
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。
これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。
これによりて、いかなる十悪・五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。
このおもむきを疑なく信ぜん輩は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(意訳)
そもそも、五劫の間思惟されて建てられた本願も、その本願を実現するための兆載永劫のご修行も、ただ、私たちすべての者を助けて下されるための手立てであり、阿弥陀如来は大変なご苦労をなされて、南無阿弥陀仏の名号一つですべての者を救うという本願(第十八願)をお建てになり、「迷いの中にある私どもを、疑いなくわたし(阿弥陀仏)にまかせる身にさせて、もろもろの雑行を捨てさせて、二心なく、わたし(弥陀)にまかせる人々を助けることができないのならば、わたしは仏にならない」と誓われて、南無阿弥陀仏という仏様(名号)になられました。
これがすなわち、私どもが、何の造作もなく極楽に往生できるいわれであるとよく知りなさい。そういうわけで、南無阿弥陀仏の六字には、すべての人々が真実の浄土に往生できるというすがたがあらわれているのです。ですから、南無と阿弥陀仏におまかせすれば、ただちに阿弥陀仏は私どもをお助け下されるのです。このように、「南無」の二字は、私どもが阿弥陀如来の大悲の勅命に向かって後生おまかせしますと信順するこころです。そして、このように弥陀におまかせする人を、漏らさずにお救い下さるこころが、「阿弥陀仏」の四字のこころです。
こういうわけで、どのような十悪・五逆の悪人、五障・三従の女性であっても、諸の雑行を捨てて 、ひたす らに、後生おまかせしますと弥陀に信順する人を、阿弥陀仏は、たとえば、十人であれ、百人であれ、みなことごとく、漏らさずにお助け下さるのです。
このことを疑いなく信ずる人びとは、真実の弥陀の浄土に往生することができるのです。あなかしこ、あなかしこ。


法蔵菩薩が五劫思惟して建てられた本願とは、南無阿弥陀仏一つで救うという本願です。ここに十九願や二十願の意味はどこにもありません。そして、五兆の願行が成就して、南無阿弥陀仏という仏様になられたのでした。法然聖人や聖覚法印、親鸞聖人と同じように、蓮如上人も五劫思惟の内容を、十八願のこと、南無阿弥陀仏で衆生を救うことだと教えられています。五劫思惟の内容を三願転入と書く『なぜ生きる2』が、歴代の善知識方の教えにいかに反しているのかがお分かり頂けると思います。

また、上の御文章の中には「方便」という語が出てきますが、前後の流れから明らかなように、五劫思惟の本願、兆載永劫のご修行のことをいわれています。そして、このような「方便」を、「善巧方便」といいます。

『なぜ生きる2』では、「方便=真実へ導くに不可欠な教え」(同書129頁)と定義して、方便という語が出てくれば、それは十九願や二十願のこととしていますが、それが同書の根本的な誤りの一つです。

そもそも、方便とは、仏が衆生を救済するときに用いる巧みな方法、手段、手立てのことをいいます。
そして、その中には、「善巧方便」と「権仮方便」とがあることを知らなければなりません。
善巧方便」とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法のことで、随自意の法門のことをいいます。
一方、「権仮方便」とは、随自意の法門を直ちに受け取れない衆生を導くために、仮にしばらく誘引のために用いられる教えのことで、随他意の法門をいいます。

親鸞会の教え方、『なぜ生きる2』の書き方では、両者を区別することなく、ごちゃまぜにして、「方便」と書かれていたら、それは随他意の法門のこと(「権仮方便」)のことであり、十九願、二十願のことであるとしています。これが、根本的な誤りなのです。

「方便=十九願、二十願」という考えが、親鸞会の会員さんには強く植え付けられていますので、親鸞会流の解釈では、明らかに意味が通らないお言葉(すなわち「善巧方便」の意味で使われているの「方便」の例)をいくつか挙げます。

まずは、親鸞聖人が、『浄土論註』を引かれて二種の法身について教えられたお言葉です。
諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。(証文類
(現代語訳)
仏や菩薩がたには二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じとすることはできない。

余談になりますが、高森会長の『独言』では、方便法身のことを「ニセモノ」と書いています(「高森顕徹先生の独言について②」参照)。方便法身は決して「ニセモノ」ではありません。法性法身は、いろも、かたちもなく、私たちの認識にのらないので、私たちの認識にのるような形で現れて下された法身が、方便法身(すなわち、南無阿弥陀仏)です。すなわち、方便法身とは、真実に他なりません。「ニセモノ」に対していうのならば、「ホンモノ」ということになります。

次は、同じく『浄土論註』を引かれて阿弥陀仏の浄土を無上の方便と教えられたお言葉です。
このなかに〈方便〉といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。 (証文類
(現代語訳)
いまここに<方便>というのは、願をおこしたすべての衆生を摂め取り、みなともに浄土に生れさせることである。阿弥陀仏の浄土は、仏となる究極の道であり、この上なくすぐれた手だてなのである。

安楽仏国に到れば、すなわち必ず仏性を顕す、本願力の回向に由るがゆえに。」(真仏土文類)と親鸞聖人が、教えられているように、安楽仏国は、真の報土のことですから、決して十九願や二十願で往生する方便化身土のことではありません。つまり、上記の「無上の方便」には、十九願や二十願の意味は一切ありません。

また、十七願のことを、方便の御誓願と仰っているところもあります。
諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。(親鸞聖人御消息

そして、親鸞聖人は『教文類』の冒頭で「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」と教えられていますが、その往相の回向について、「弥陀の方便」という表現を用いて教えられた御和讃もあります。
往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり (高僧和讃

(現代語訳)
往相の回向を説くのは、 阿弥陀如来の手だての時が来たからである。
大悲の願いによる信心と念仏をいただけば、 迷いの私がそのまま浄土に生まれてさとりを得るのである。


親鸞聖人が往相回向に関する願として具体的に挙げられているのは、『行文類』『信文類』『証文類』の標挙に明らかなように、十七願、十八願、十一願であり、十九願、二十願ではありません。

このように、阿弥陀仏の浄土、阿弥陀仏の仏身(方便法身)、往相回向のことを、「方便(善巧方便)」と教えられています。
上で挙げたお言葉をまとめると、阿弥陀仏の善巧方便とは、いろもなく、かたちもない真如法性が、私たちの認識にのるように、法蔵菩薩となって現れてくださり、五劫思惟の願を建てられ、兆載永劫のご修行の末に、南無阿弥陀仏という仏様(名号)となって私たち衆生をよび続けて下さり、名号によって救って下さることをいいます。

ところが、『なぜ生きる2』16章では、最初に、
釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり

の『高僧和讃』のお言葉を挙げ、三願転入の御文を根拠に
この三願転入のご文から、阿弥陀仏の善巧方便とは、弥陀の十九・二十の二願であることが明瞭となる。(16章300、301頁)
と書かれています。ここに、善巧方便と権仮方便の混同があります。

三願転入の御文から明らかになるのは、阿弥陀仏の十九願、二十願は権仮方便であるということです。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。(化身土文類

この三願転入の御文から、
・万行諸善の仮門(十九願)も、善本徳本の真門(二十願)も、「出た」、「離れた」と教えられていることから、暫く用いられて、のちに廃される随他意の法門であること
・万行諸善の仮門(十九願)の果は双樹林下の往生、善本徳本の真門(二十願)の果は難思往生といった方便化身土への往生であること
・「仮門」も「真門」も、真実ではない教えを指していわれていること
が明らかです。すなわち、阿弥陀仏の十九願も二十願も、善巧方便ではなく、権仮方便であることを教えられているのが、三願転入の御文です。

善巧方便と権仮方便の区別を知らずに、「阿弥陀仏の善巧方便=十九願・二十願」と誤った教えを説いて、権仮方便である十九願の入り口に会員を止めてしまっているのが、親鸞会であり、高森顕徹会長です。方便法身を「ニセモノ」といってしまうところから見て、善行方便の意味も知らずに、教えを説いているのでしょう。そのような団体が「浄土真宗親鸞会」と名乗っているのですが、その団体こそ「ニセモノ」であると知らなければなりません。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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