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親鸞聖人が教えられた「万人共通の道」

親鸞会では、弥陀の救いにあうまでの万人共通の道程であるとして、三願転入の道程を説きます(参考「警鐘・親鸞聖人の教えと異なることを語る者たちの特徴」)。しかし、「三願転入の道程が弥陀の救いにあうまでの万人共通の道程である」と説いた親鸞聖人のお言葉が存在しないことは、当ブログや他の親鸞会教義批判ブログで繰り返し指摘されている通りで、多くの記事が書かれています。

そこで、この記事では、親鸞会流三願転入を直接的に批判するのではなく、親鸞聖人は「万人共通の道」ということに該当することを教えられているのか、教えられているとすれば、それは一体どのようなお言葉で教えられているのかということについて書いてみたいとと思います。

まず、「万人共通の道」ということに、相当する端的なお言葉を、親鸞聖人が教えられているのかと考えてみたとき、真っ先に浮かんできたのが「同一念仏無別道故(同一に念仏して別の道なきがゆゑに)」というお言葉でした。もともとは『浄土論註』のお言葉ですが、親鸞聖人は、『行文類』『証文類』『真仏土文類』等で、このお言葉を引かれており、大変重視されていたお言葉であることが窺えます。

今は、『証文類』からお言葉を引用しますと、
荘厳眷属功徳成就とは、『偈』に、《如来浄華衆正覚華化生》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。
(現代語訳)
<眷属功徳成就とは、願生偈に、«浄土の清浄の人々は、みな阿弥陀仏のさとりの花から化生する»といっていることである>と『浄土論』に述べられている。これがどうして不可思議なのであろうか。この迷いの世界には、胎生や卵生や湿生や化生という生れ方をする多くのものがいて、そこで受ける苦も楽も千差万別である。それはさまざまな迷いの行いに応じて生れるからである。しかし、浄土への往生は、みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏するものはみな兄弟となるのであり、浄土の仲間は数限りない。どうして思いはかることができ ようか。
と説かれています。ここで、親鸞聖人は、
「迷いの世界に生まれる者には、種々の生まれ方をするものがいて、そこで受ける苦楽も様々である。それは行いが様々であり、その様々な行いに応じて生まれるからなのである。
一方、阿弥陀仏の浄土への往生することは、如来正覚の仏座への化生である。それは同じ念仏によって生まれるのであり、別の道によるのではないからである。」
と教えられています。「阿弥陀仏の浄土に往生するには、同じ念仏という道による」ということであり、まさに「万人共通の道」を教えられた親鸞聖人のお言葉であると思います。

この念仏の道に入るのに、三願転入という道程を経なければならないと教え込まれている人もいるので、簡単に言っておきますが、私たちの側には、どうすれば念仏の道に入れるのかという道程・プロセスは存在しません。
なぜならば、阿弥陀仏は、「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ」(歎異抄)と、煩悩具足の私たちには、どんな行によっても迷いの世界を離れることはできないと見抜かれて本願を建てられており(仏願の生起)、「大荘厳をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ」(大無量寿経)と、兆載永劫の御修行を成就なされて南無阿弥陀仏となられて私たちを救済しつつあるからです(仏願の本末)。

「こんなことでは私は救われない」という問題は、私たちが問題にするよりも前に既に阿弥陀仏の方で見抜かれていたことであり、私たちの側には迷いの世界を離れるものがらは何もないということをご承知の上で、阿弥陀仏は本願を建てられているのです。ですから、「こんなことでは救われない」という問題は、私たちの方で問題にすることではないのです。
また、「こうすれば私は救われるだろう(この道程を通らなければ私は救われないだろう)」という問題も、私たちが問題にするよりも前に既に阿弥陀仏の方で問題にされていたことであり、迷いの世界を離れる法(南無阿弥陀仏)を完成されて、南無阿弥陀仏となって「我にまかせよ、必ず往生させる」と私たちに喚びかけ続けているのです。ですから、「こうすれば救われるだろう(この道程を通らなければ救われないだろう)」という問題も、私たちの方で問題にすることではないのです。

そうすると、問題は、阿弥陀仏の仰せに信順するか否かだけであり、念仏の道に入るために衆生の側になさねばならない行(例えば、十九願の修諸功徳の行)などないということがお分かり頂けるかと思います。

このところを、親鸞聖人は、「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」(信文類)と示されました。仏願の生起本末を聞くところに、「こんなことでは救われない」という問題も、「こうすれば救われるだろう(この道程を通れば救われるだろう)」という問題も、仏願の上で既に解決されていることであることを知らされます。そして、その仏願の生起本末を疑い・計らいを雑えずに受け容れている状態を、本願を信じているというのです。

話を元に戻しますが、親鸞聖人は、本願をどのように信じているのかを、『歎異抄』では、
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
と説かれています。
この「ただ」とは、唯一のただであり、ただ念仏とは念仏一行ということです。「念仏一行によって、弥陀に救われる」という法然聖人の仰せをいただいて疑いなく受けいれていること以外に親鸞聖人の信心はないとの仰せです。法然聖人の教えは、『選択本願念仏集』に説かれていますが、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」ということを、『選択本願念仏集』では「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。」(『行文類』選択本願念仏集引文より)と教えられていました。念仏一行によって必ず往生できる。その理由は、それが阿弥陀仏の本願であるからだ、というのが法然聖人の教えでした。阿弥陀仏は、本願において、衆生の往生の行として、念仏一行を選び取られて、余行を選び捨てられています。称名念仏とは、阿弥陀仏が選び取られた行ですから、念仏一行で必ず往生ができるのです。

また、衆生が選び取った行ではなく、阿弥陀仏の選び取られた行ですから、衆生の方から阿弥陀仏に回向する必要はありません。そこで、法然聖人は、念仏は不回向であると教えられています。それを本願力回向の大行として明らかにされたのが親鸞聖人でした。親鸞聖人は、『行文類』で、『選択本願念仏集』の引文に続いて、
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
(現代語訳)
上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。
阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

と説かれ、さらに、
ここをもつて『論の註』(論註下 一二〇)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。
と結んでいかれたのでした。

阿弥陀仏から回向された念仏によって、浄土に往生し、仏のさとりをひらく道、「念仏によって往生成仏する道」一つを教え進めていかれたのが親鸞聖人でした。そして、それこそが、親鸞聖人の教えられた「万人共通の道」だったです。
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