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[C355] Re: 秘密コメント様

この御和讃は、ある時期の教学講義で、毎回話されていたのを覚えています。
無理な解釈だと思っていても、「凡智ではわからない」(「高森先生しか分からないこと」)で済ましてしまうのは、自分もそうでした。

また、「文法は関係ない」で思い出しましたが、「若不生者のちかいゆへ」の御和讃の解釈が批判されていたとき、会長は「文法もへちまもあるか」とやはり教学講義で言っていたことが思い出されました。
  • 2015-07-25 14:23
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[C356]

解説ありがとうございます。
善本修習すぐれたり。のすぐれたりはどのように理解すれば良いのでしょうか?
  • 2016-08-09 11:21
  • KT
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[C357] Re: KT様

> 善本修習すぐれたり。のすぐれたりはどのように理解すれば良いのでしょうか?

善本修習すること(念仏称えること)は、「勝れている」と理解すればよいでしょう。
諸善を修めることに比べ、念仏を称えることは勝れているということです。
  • 2016-08-09 21:32
  • いつもの元会員
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[C358] ありがとうございます

ご返信ありがとうございます。
二十願の行者を嘆かれている御和讃なのに、すぐれている、で結ばれているのが理解しづらく思い、質問に至りました。

コメントを読み、
諸善を修めることに比べ、念仏を称えることは勝れている。(けれど自力なので嘆かれている)と解釈させていただきました。

  • 2016-08-10 11:29
  • KT
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[C359] Re: ありがとうございます

> コメントを読み、
> 諸善を修めることに比べ、念仏を称えることは勝れている。(けれど自力なので嘆かれている)と解釈させていただきました。

少し補足しますと、「善本修習すぐれたり」(念仏を称えることは勝れている)というのは、二十願の行者の心持ちを仰ったものだと理解すればよいと思います。

  • 2016-08-10 22:59
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『なぜ生きる2』を読む(12)-誡疑讃のトンデモ解釈、信罪福心、仏願の生起本末

『なぜ生きる2』を読む(11)の続きです。

ここまで、親鸞聖人が、『化身土文類』において、『大無量寿経』、『無量寿如来会』の胎化得失の文を引かれ、仏智疑惑を誡めておられるということについて、繰り返し書いてきました。
そして、親鸞聖人はこれらのお言葉などに依られて、『正像末和讃』の中に、23首の誡疑讃を書かれています。その目的は、親鸞聖人ご自身が誡疑讃の末尾に「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり」と書かれていることから明らかなように、仏智疑惑の罪を知らせ、仏智疑惑を誡めるためでした。具体的にいえば、仏智を疑惑しながら諸善を修することで往生を願う十九願、仏智を疑惑しながら念仏を称えることで往生を願う二十願の誡めです。

ところが、『なぜ生きる2』では、誡疑讃の中の一首である
如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり (正像末和讃

のお言葉を正反対の意味で解釈しています。

まず、上の御和讃の正しい意味についてです。
この御和讃は、『大経』の胎化得失の文の
仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。 しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。(『化身土文類』大無量寿経引文より)
(現代語訳)
そしてまた、この上なくすぐれた無量寿仏の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望み、善の本である名号を称えて、無量寿仏の国に生れたいと願う。
に依られたもので、
御和讃)           -(大無量寿経
如来の諸智を疑惑して」 -「この諸智において疑惑して
信ぜずながらなほもまた」-「信ぜず。 しかもなほ
罪福ふかく信ぜしめ」   -「罪福を信じて
善本修習すぐれたり」   -「善本を修習して
と対応しています。したがって、この御和讃の意味も、『大経』の意味と同じく、
如来のいろいろな智慧を疑って、 他力の念仏を信じることができないまま、 やはり善悪因果の道理のみを信じ、 自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです
であり、仏智疑惑しながら、なおも因果の道理を信じ、自力念仏に励んでいる者を嘆かれた御和讃であることが分かります。

一方、『なぜ生きる2』15章(291頁)には、
”十八願・真実は信じられてはいないが〔如来の諸智を疑惑して〕、十九願を深く信じて〔罪福深く信ぜしめ〕弥陀に向かって善に努めている。
 そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号〔善本〕を称える〔修習〕身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか”と声価されている。
 その上で、二十願は目的を果たさせる「果遂の誓」だから、行くてに待つ大悲の願船(十八願)まで進めよ、と激励されている『和讃』である。

と書かれています。もともとは二十願の行者を嘆かれている御和讃を、二十願まで進んで素晴らしいと声価されているとか、激励されている『和讃』であると正反対の意味で、高森会長は解釈しているのです。これは、高森会長の話にしばしば見られる、お聖教を部分的に切り取り、全体の文脈とは無関係に誤った意味で解釈する典型的な例です。

意味を正反対にしているだけでなく、「罪福ふかく信ぜしめ」を取り出して、「十九願を深く信じて」とする解釈も親鸞聖人には見られない解釈であり、おかしな解釈です。そもそも、親鸞聖人は、罪福を信ずる心(信罪福心)のことを、以下のように、自力心のこととして教えられました。
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(化身土文類
(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。
ですから、「罪福ふかく信ぜしめ」を、「十九願を深く信じて」とする解釈は親鸞聖人の上において存在しない解釈なのです。

また、罪福をふかく信ぜしめさせて救いを求めさせることは、自力心を煽ることに他なりませんから、親鸞聖人は、お聖教の上で、因果の道理についてほとんど触れられてはいません。それに対して、高森会長は、因果の道理の話を繰り返しします。『なぜ生きる2』でも、10章などで因果の道理に触れられています。このような点からも、親鸞聖人と高森会長との違いを知ることができます。

ここで、信罪福心仏願の生起本末の関係について、大事なところなので、簡単に触れておきたいと思います。
信罪福心とは、「罪を信ずる心」と「福を信ずる心」ということですが、平たく言うと、前者は、「こんなことでは救われないという心」であり、後者は、「こうしたら救われるという心」です。
そうすると、前回の記事で触れたように、これらの心は、仏願の生起本末を聞くところに否定される心であるということがお分かり頂けると思います。
すなわち、こんなことでは救われないという心は、「阿弥陀仏は、私たちの側には迷いの世界を離れるものがらは何もないということを既に見抜かれて本願を建てられている」という仏願の生起を聞くことによって否定される心です。
また、こうしたら救われるという心も、「阿弥陀仏は、迷いの世界を離れる法(南無阿弥陀仏)を完成されて、南無阿弥陀仏となって私たちに喚びかけ続けている」という仏願の本末を聞くことによって否定される心です。

つまり、信罪福心とは、阿弥陀仏の方で既に解決されている問題を問題にしている心であり、仏願の生起本末を聞くところに否定される心なのです。しかし、既に『なぜ生きる2』を読むのシリーズで触れたように、『なぜ生きる2』では仏願の生起本末も、誤って書かれているので、同書をどれだけ読んでも信心獲得は覚束ないでしょう。

さて、『正像末和讃』の末尾に書かれている自然法爾章で、親鸞聖人は、
「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

(現代語訳)
「自然」 ということばは、 「自」 は 「おのずから」 という意味です。 人間の自力のはからいによるものではないのです。 「然」 というのは、 「そのようにさせる」 ということばであり、 人間のはからいによるのではないのです。 如来の本願によるものであるからです。 「法爾」 ということばは、 この如来のお誓いによってそうなるのですから、 法爾というのです。 この法爾は阿弥陀如来のご誓願ですから、 すべて人間の自力のはからいはないことなのです。 この理由から他力とは自分のはからいのないのを本意とするのだと知るべきだ、 といわれるのです。 「自然」 というのは、 阿弥陀如来がそのようにさせるということばです。
阿弥陀如来のご誓願は、 はじめから人間の自力のはからいではなくて、 阿弥陀如来が人間を 「南無阿弥陀仏」 と帰依させて、 浄土に迎えようとお誓いくださったのですから、 人間が善行を積んでいるとか、 悪行をしているとかの結果を往生の原因と思わないのを自然というのだと聞いております。

と教えられました。

『なぜ生きる2』に書かれていることが正しいと思い込んでいる親鸞会の会員さんにおかれましては、善悪因果の道理を超えたところにあるのが、弥陀の十八願の救いであることを知って頂きたいと思います。十九願の善を実践した先にあるのが十八願の救いではありません。親鸞会で言う横の道を進んだ先に救いがあるのでもありません。そのような実践の先に救いがあるという心は、人間のはからい(=信罪福心=自力心)であって、阿弥陀仏の本願の救いとは、相容れないものです。

因果の道理を強調して、自力心を煽り、聞く者を信罪福心の虜にしているのが高森会長の説法であり、著作です。信罪福心(=自力心)は、弥陀の本願をはねつける心ですから、高森会長の説法、著作というのは、弥陀の本願をはねつけることを勧めているようなものです。

この信罪福心(=自力心)は、正しい仏願の生起本末を聞くことによって廃ります。親鸞会、高森会長から正しい仏願の生起本末を聞くことは、ありえない状況ですから、そのような団体、師を離れ、ただ正しい仏願の生起本末を聞信して頂きたいと思います。
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[C355] Re: 秘密コメント様

この御和讃は、ある時期の教学講義で、毎回話されていたのを覚えています。
無理な解釈だと思っていても、「凡智ではわからない」(「高森先生しか分からないこと」)で済ましてしまうのは、自分もそうでした。

また、「文法は関係ない」で思い出しましたが、「若不生者のちかいゆへ」の御和讃の解釈が批判されていたとき、会長は「文法もへちまもあるか」とやはり教学講義で言っていたことが思い出されました。
  • 2015-07-25 14:23
  • いつもの元会員
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[C356]

解説ありがとうございます。
善本修習すぐれたり。のすぐれたりはどのように理解すれば良いのでしょうか?
  • 2016-08-09 11:21
  • KT
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[C357] Re: KT様

> 善本修習すぐれたり。のすぐれたりはどのように理解すれば良いのでしょうか?

善本修習すること(念仏称えること)は、「勝れている」と理解すればよいでしょう。
諸善を修めることに比べ、念仏を称えることは勝れているということです。
  • 2016-08-09 21:32
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[C358] ありがとうございます

ご返信ありがとうございます。
二十願の行者を嘆かれている御和讃なのに、すぐれている、で結ばれているのが理解しづらく思い、質問に至りました。

コメントを読み、
諸善を修めることに比べ、念仏を称えることは勝れている。(けれど自力なので嘆かれている)と解釈させていただきました。

  • 2016-08-10 11:29
  • KT
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[C359] Re: ありがとうございます

> コメントを読み、
> 諸善を修めることに比べ、念仏を称えることは勝れている。(けれど自力なので嘆かれている)と解釈させていただきました。

少し補足しますと、「善本修習すぐれたり」(念仏を称えることは勝れている)というのは、二十願の行者の心持ちを仰ったものだと理解すればよいと思います。

  • 2016-08-10 22:59
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