Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント

[C22] 信仰ってなんだろう

親鸞会で言われる「信仰」は、いいかえると「聞法心」なんでしょうが、仏語や親鸞聖人のお言葉で表すと、何になるのでしょうか。

「宿善」かな?でも、なにかおかしいような気がします。
  • 2010-06-16 19:05
  • 元会員A
  • URL
  • 編集

[C23]

元会員A様

「信仰」という言葉は、親鸞会ではしっかりと定義されていないと思います。しかし、宗教一般に使われる言葉で、聞いている者に何となく分かったような気を起こさせる効果があります。

会員さんに、「信仰」とは何ですか?と尋ねたらいろいろな答えが返ってくると思います。(説いている本人も含めて)誰も本当の意味を知らない言葉なのかもしれません。

あいまいだけど、勝手に自分の中で納得してくれる言葉というのが、「信仰」という言葉なのでしょう。
  • 2010-06-16 22:03
  • いつもの元会員
  • URL
  • 編集

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/39-e5108f1e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

これをみている親鸞会の会員さんは少し考えて見て下さい

親鸞会ホームページの記事『三願転入は弥陀のお計らい』を前回と前々回取り上げました。

このブログを読んでいる親鸞会会員の方がいましたら、この『三願転入は弥陀のお計らい』の文章についていろいろ考えて頂きたいと思います。親鸞会で説いていることを考察するのによい材料だと思うからです。

まず、もう一度読んでみましょう。

説明の都合上(A)(B)(C)(D)をつけました。

(A)
「善をしなければならないのか」と尋ねる人がいる。
 言下に、こう答えたらよい。
「阿弥陀仏が、お勧めになられていることなのだ」と。

(B)
 本師本仏の阿弥陀仏には、四十八のお約束がある。世に名高い、弥陀の四十八願といわれるものだ。その中で「あらゆる人を救い摂る」と誓われた願は3つである。十八・十九・二十の三願のみである。
「どんな人をも、必ず絶対の幸福に救う」と誓われた十八願は、自らの意(本心)に随って建てられたもの。ゆえに随自意(ずいじい)の願とか、王本願といわれる。
 なにしろ、昿劫流転(こうごうるてん)の自惚れ強く、相対の幸福しか知らない我々を、絶対の幸福まで導くことは、難中の難事、善巧方便(ぜんぎょうほうべん)が不可欠だったのだ。
 十九・二十の二願は、そのために、阿弥陀仏が建立なされたものである。十八願、絶対界へ導くために、しばらく我々(他)の意に随って誓われたものだから、十九・二十を、随他意(ずいたい)の願といわれる。
 強情我慢で自惚れ強く、自力の執着から離れ切れず、流転を重ねる我々に、できるかできぬかやってみよ、気の済むまでやってみよ(十九・二十の随他意の願)。
 できないままを、無条件で救い摂る(十八の随自意の願)のが、弥陀の正意なのである。
 随自意、真実の願に誘引するための、随他意、方便の願だから、三願は孤立したものでないことを開顕なされたのが親鸞聖人の『教行信証』である。弥陀が、十八願のみで救済できるなら、方便二願を建てられるはずがない。
 その阿弥陀仏の十九の誓いは、「修諸功徳(しゅしょくどく)の願」と言われている。「諸(もろもろ)の功徳を修し」とは、諸善万行、善と教えられるものなら何でもしなさい。知っただけでは観念の遊戯、論語読みの論語知らず、になってしまう。実行しなければ、結果は分からない。「力一杯、功徳(善)を修めなさい」と、阿弥陀仏が十方衆生に勧められているのが十九の願である。

(C)
「では、信仰が進めば、救われるのか」と、聞きたい人がいるに違いない。

(D)
 それは、凡夫の計ろうべきことではない。ひとえに弥陀のお計らいである。阿弥陀仏の絶対の救済を、どうして我々が計らえようか。
 不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を計らうことの愚かさを、親鸞聖人は、こうたしなめられている。
「補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議を計らうべき人は候わず」(末灯鈔)
“最も仏に近い、弥勒菩薩でさえ、弥陀の本願力不思議は想像も思慮もできないのに、阿弥陀如来の仏智を計らえる人がいるはずないではないか”



それぞれの大まかな意味です。
(A)では、阿弥陀仏が善を勧められているということを述べています。
(B)では、(A)の根拠として十九願を挙げています。
(C)では、「では、信仰が進めば、救われるのか」と問題提起がなされています。
(D)では、『末灯鈔』のお言葉を挙げ、(C)のようなことは計らうべきことではないと言っています。

「三願転入を計らうな」なのか?、「18願を計らうな」なのか?
(補足)「三願転入を計らうな」なのか?、「18願を計らうな」なのか?
で親鸞聖人が計らうなと仰っているのは18願であり、「信仰が進めば、救われるのか」とか「三願転入」のことではないと説明しました。すると、(D)の部分は意味がない文章だということになります。


そこで(C)に戻ってみましょう。
突然、「では、信仰が進めば、救われるのか」と問題提起がなされていますが、これより前の(A)や(B)で「信仰」とか「信仰が進む」ということについて書かれているのかが、そもそも問題です。

冷静に意味を考えて読めば、そのような言葉や「信仰」というものを定義する内容はありませんので、上の文章を読んでも、「では、信仰が進めば、救われるのか」と、聞きたい人があらわれるはずがないのです。

親鸞会の人には、文章を読んだり話を聞いたりして本来ならば疑問に思って当然なことを、
・スルーしてしまう傾向
・自分で勝手に解釈して話をつなげてしまう傾向
・理解できないことなんだと決めつけてしまっている傾向
などが見られます。

おそらく、親鸞会の人は繰り返し「善をしなければ信仰は進みませんよ」と聞いているので、何の違和感もなく、上の文章がつながっているかのように読めてしまうのでしょう。しかし、本来はつながってはいない文章なのです。



また、「信仰」という言葉が何を意味しているのかという問題もあります。

果たして、親鸞会で使われる「信仰」という言葉は、一体何を表しているのでしょうか?
そもそも親鸞聖人や蓮如上人の書かれたものに「信仰」という言葉はあるでしょうか?
もしないならば、「信仰」という言葉に対応する親鸞聖人のお言葉は何なのでしょうか?
親鸞会で「信仰」という言葉に対応する親鸞聖人のお言葉は「○○です」と、ハッキリ聞いたことはありますか?
そして、その「信仰」というものが「18願によって救われること」に何か関係あるのでしょうか?



(1)「善をしなければ信仰は進みませんよ」
(2)「では、信仰が進めば、救われるのですか?」
(3)「進めば分かります」
という流れで話を聞いたことがある人もいると思いますが、
この場合の「信仰」とは何か、考えたことがありますか? 
また、(1)(2)(3)という流れで話をするとどんな効果があるのか、考えたことがありますか? さらに、親鸞聖人のお言葉を当てはめて考えたことはありますか?

『三願転入は弥陀のお計らい』の文章では、(2)に対して、
『(3)「進めば分かります」』の代わりに、
『(D)「そんなこと計らうな」』と答えていますが、
親鸞聖人は計らうなとは仰っていませんので、大いに考えて頂きたいと思います。
スポンサーサイト

コメント

[C22] 信仰ってなんだろう

親鸞会で言われる「信仰」は、いいかえると「聞法心」なんでしょうが、仏語や親鸞聖人のお言葉で表すと、何になるのでしょうか。

「宿善」かな?でも、なにかおかしいような気がします。
  • 2010-06-16 19:05
  • 元会員A
  • URL
  • 編集

[C23]

元会員A様

「信仰」という言葉は、親鸞会ではしっかりと定義されていないと思います。しかし、宗教一般に使われる言葉で、聞いている者に何となく分かったような気を起こさせる効果があります。

会員さんに、「信仰」とは何ですか?と尋ねたらいろいろな答えが返ってくると思います。(説いている本人も含めて)誰も本当の意味を知らない言葉なのかもしれません。

あいまいだけど、勝手に自分の中で納得してくれる言葉というのが、「信仰」という言葉なのでしょう。
  • 2010-06-16 22:03
  • いつもの元会員
  • URL
  • 編集

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/39-e5108f1e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。