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[C27]

書いてくださった内容、S会の友達に話してみます。
  • 2010-06-19 06:24
  • 遠慶宿縁
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  • 編集

[C28] 丸太や板切れ

「じゃ、君に一つの譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこへ大木が漂流していたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります」(「仏敵」より)

 これは奈良のお同行と伊藤師の自他力廃立のやりとりの所ですが、実はこれを形を変えてパクッたようですね。
  • 2010-06-19 06:40
  • カウフマン
  • URL
  • 編集

[C29]

>・難度海とは、この人生だけではなく、果てしなく迷いを重ねてきた生死輪転のすがたを言われたものではないか?
>・阿弥陀如来の本願がこの人生だけを明るく楽しく渡すものに矮小化されてしまっている感じを受ける。

至極同感です。

難度海を(苦しみの多い)「人生」の方で表現してますね。
わかりやすく、という配慮をしたのかもしれませんが、
意味するところは変わってしまっています。

これでは「難度海を度する大船」が、苦しみの多い「人生」をどうにかしてくれるようなニュアンスになってしまいます。
阿弥陀如来は苦しみの多い人生から苦しみを取り除いてくれる、みたいな意味になっている。


あと、文章にも一貫性がないのも・・・

政治・経済・科学などを泳ぐコーチと表現して、泳ぐ方向が分かってなければならないと言うのは、泳いだ先に辿り着かなければならないところがあるからです。(闇雲にあてもなく泳ぎ続けるだけなら泳ぐコーチで十分ですから)

なのに人生の目標は「船に乗る」ことになってしまっている。(海を渡ることではない)

船に乗ること、と言っておきながら直後に「乗せて」「渡して」くださると言っている。

人生の目的は船に乗ることなのか、海を渡ることなのか、自分で乗るのか乗せてくださるのか、といったところが混在してる奇妙な文章です。

[C30]

現役会員時代、よく「お西は当益しか説かない、死んだら極楽しか説かない」とか聞かされましたが、S会は逆に(ヘンテコな形で)現益を説くばかりだと感じます。

また、肝心の阿弥陀仏の救いについて、本願力回向という事や、ただ今の救いという概念が欠如している為に、完全に整合性が無くなっていますね。

何と申しますか…
伝統教学の皮を被った(会長オリジナルの)ヘンテコ近代教学なんですよね、S会教義って。
  • 2010-06-19 15:15
  • Rudel
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[C32]

>遠慶宿縁様

使えるものは何でも使って下さい(笑)

>カウフマン様

形を変えたために悪くなってしまった例ですね。

>名無し様

冷静に読むと奇妙な文章が多いのが親鸞会の文章ですね。

>Rudel様

仰る通り「伝統教学の皮を被った(会長オリジナルの)ヘンテコ近代教学」だと思います。

>秘密コメントの方

そんな理解をしている会員さんがいるのは聞いたことがありませんでしたが、このようなたとえ話ばかり聞いているためにそういう理解になってしまう人もいるのですね。
生死流転の因については、仰る通りです。機会があれば、記事で書きたいと思います。
  • 2010-06-20 12:06
  • いつもの元会員
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久しぶりに親鸞会流「難度海を度する大船」 を読んで

親鸞会ホームページ『浄土真宗講座 親鸞聖人2』より引用。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船」(教行信証 総序)

「難度海」とは、生きていく苦しみの人生を海に例えて言われたものです。

空と水しか見えない海で、押し寄せる苦しみの波に翻弄されながら、夫や妻、子供、金や財産、地位や名誉などの丸太ん棒や板切れ求めて、必死に泳いでいるのが私たちではないでしょうか。何かを頼りにし、あて力にしなければ生きてはいけないからです。しかし、風や波に悩まされたり、すがった丸太ん棒に裏切られ、潮水のんで苦しんでいる人、おぼれかかっている人、あるいは溺死した人もおびただしい数にのぼります。

そんな人たちに、懸命に泳ぎ方のコーチをしているのが、政治、経済、科学、医学、芸術、文学、法律などでしょう。

ところが、
「どこに向かって泳ぐのか」
「なぜ、生きねばならないのか」
肝心な泳ぐ方角、人生の目的が明らかにされているでしょうか。

(中略)

冒頭のお言葉は、
「阿弥陀如来の本願は、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大きな船である。この船に乗ることこそが人生の目的である」
との確言であります。

苦しみの波の果てしない海に、永らくさまよいつづけてきた私たちを、必ず乗せて渡してくださる、救助の大船の厳存と、方角を明示されているのが、『教行信証』であり、親鸞聖人なのです。




親鸞会在籍中、何度もきいた話です。

この話を、今、改めて読むといくつかの違和感があります。

・難度海とは、この人生だけではなく、果てしなく迷いを重ねてきた生死輪転のすがたを言われたものではないか?
・阿弥陀如来の本願がこの人生だけを明るく楽しく渡すものに矮小化されてしまっている感じを受ける。
・「救助の大船の厳存と、方角を明示されている」とは、阿弥陀如来の本願に向かって私が泳いでいくような印象を受ける文章だが、本願力回向のご法義に反してはいないだろうか?
・阿弥陀如来の本願の船に乗せていただいても、夫や妻、子供、金や財産、地位や名誉は頼りにするし、必要なものである。丸太ん棒や板切れには別のものを例えた方がよいのではないか?
・「阿弥陀如来の本願の船」と「金や財産などの丸太ん棒や板切れ」とが対比されているが、次元が異なり過ぎるものを対比している気がする。
など。


そこで、丸太や板きれなど上に出てくる言葉を使って、別の話を作ってみました。


阿弥陀如来の本願は、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と、私に向かって途切れる間なく喚び続けて下さる召喚の勅命。

「摂め摂って捨てぬ」救助の大船は、ただいま、汝を乗せようとはたらき続けて下さっておられるのに、当の私は丸太や板きれにすがって、本願のお言葉に見向きもしない。

丸太や板きれにすがるとは、
・自己のすがたが知らされなければ
・善をしなければ
・三願転入の心の道程を通らなければ
・ド真剣にならなければ
・必堕無間の自己に驚きがたたなければ
などと、無条件の救いに条件を付け、「まかせよ、必ず助ける」の勅命を拒絶しているすがた。

丸太や板きれにしがみついて手放さなかったが故に、微塵劫に渡って生死輪転を繰り返し、難度海をさまよい続けて、生死の苦海はほとりなし。



そんな私に、親鸞聖人のお勧めは、本願力回向の行信一つ。
自力諸善や自力念仏を救いに関係あるかのように説いたら、きいた者はそれらをあてにし、丸太や板きれを握ってしまう。


「そのままこい」の勅命に、今は、南無阿弥陀仏のほかはなし。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏



つながりが悪いので、機会があったら書き直します。。。
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書いてくださった内容、S会の友達に話してみます。
  • 2010-06-19 06:24
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[C28] 丸太や板切れ

「じゃ、君に一つの譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこへ大木が漂流していたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります」(「仏敵」より)

 これは奈良のお同行と伊藤師の自他力廃立のやりとりの所ですが、実はこれを形を変えてパクッたようですね。
  • 2010-06-19 06:40
  • カウフマン
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[C29]

>・難度海とは、この人生だけではなく、果てしなく迷いを重ねてきた生死輪転のすがたを言われたものではないか?
>・阿弥陀如来の本願がこの人生だけを明るく楽しく渡すものに矮小化されてしまっている感じを受ける。

至極同感です。

難度海を(苦しみの多い)「人生」の方で表現してますね。
わかりやすく、という配慮をしたのかもしれませんが、
意味するところは変わってしまっています。

これでは「難度海を度する大船」が、苦しみの多い「人生」をどうにかしてくれるようなニュアンスになってしまいます。
阿弥陀如来は苦しみの多い人生から苦しみを取り除いてくれる、みたいな意味になっている。


あと、文章にも一貫性がないのも・・・

政治・経済・科学などを泳ぐコーチと表現して、泳ぐ方向が分かってなければならないと言うのは、泳いだ先に辿り着かなければならないところがあるからです。(闇雲にあてもなく泳ぎ続けるだけなら泳ぐコーチで十分ですから)

なのに人生の目標は「船に乗る」ことになってしまっている。(海を渡ることではない)

船に乗ること、と言っておきながら直後に「乗せて」「渡して」くださると言っている。

人生の目的は船に乗ることなのか、海を渡ることなのか、自分で乗るのか乗せてくださるのか、といったところが混在してる奇妙な文章です。

[C30]

現役会員時代、よく「お西は当益しか説かない、死んだら極楽しか説かない」とか聞かされましたが、S会は逆に(ヘンテコな形で)現益を説くばかりだと感じます。

また、肝心の阿弥陀仏の救いについて、本願力回向という事や、ただ今の救いという概念が欠如している為に、完全に整合性が無くなっていますね。

何と申しますか…
伝統教学の皮を被った(会長オリジナルの)ヘンテコ近代教学なんですよね、S会教義って。
  • 2010-06-19 15:15
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>遠慶宿縁様

使えるものは何でも使って下さい(笑)

>カウフマン様

形を変えたために悪くなってしまった例ですね。

>名無し様

冷静に読むと奇妙な文章が多いのが親鸞会の文章ですね。

>Rudel様

仰る通り「伝統教学の皮を被った(会長オリジナルの)ヘンテコ近代教学」だと思います。

>秘密コメントの方

そんな理解をしている会員さんがいるのは聞いたことがありませんでしたが、このようなたとえ話ばかり聞いているためにそういう理解になってしまう人もいるのですね。
生死流転の因については、仰る通りです。機会があれば、記事で書きたいと思います。
  • 2010-06-20 12:06
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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