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降誕会?ーこんな説き方も浄土真宗の教えに反する例です

親鸞会公式サイトの記事親鸞聖人が明らかにされた完成・卒業のある信心は、降誕会の写真が掲載されていますが、そのときの説法の内容なのでしょうか?

その内容に、「本願力回向」や「平生業成」の御法義に反すると思われるところがあるので、記事の一部を引用してそれらを指摘したいと思います。

 では、どうすれば信心獲得できるのか。親鸞聖人は、どう教えておられるか。
「聖人一流章」には、

「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう」

と教示されている。

 まず、「もろもろの雑行をなげすてて」とは、どういうことか。

「仏法は聴聞に極まる」

 同じ「きく」でも、聴と聞とは、聞き方が違う。聴は、善知識から教えを聞くことだが、聞は、弥陀の呼び声を聞くのだ。聴なくして聞はない。

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」ということだが、自力の心とは、
「どうしたら信心獲得できるのか」
「どうしたら聞けるのか」
「どうしたら助かるのか」
という心。これは、「自分には、南無阿弥陀仏を受け取れるまことの心がある」という自惚れ心である。

 親鸞聖人は、これを『正信偈』に、「邪見◎慢の悪衆生」と言われている。
この自力の心がある間は、南無阿弥陀仏を頂くことは絶対できないから、「雑行を捨てよ」と言われているのだ。

 ◎…りっしんべんに喬と書く漢字。「きょう」と読む。



●「では、どうすれば信心獲得できるのか」という言い方がよろしくありません。

その理由は、私の側に信心獲得するための方法論(どうすれば)があるかのように思わせる表現だからです。このブログで繰り返し書いているように、私の側に信心獲得する方法論(どうすれば)はありません。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(信文類)

と説かれているように、親鸞聖人が教えられている信心は本願力回向の信心です。こちらから差し出すものは何もありません。つまり私の側に信心獲得の方法論(どうすれば)はないのです。


親鸞会では「どうすれば助かるのか判らぬ」とか、「どうすればここ(一念の決勝点)まで進めるか」などと説き、きく者に方法論を与えてしまっているのが問題です。そして、会員は信心獲得の方法論に迷わされている訳です。方法論を説き与えている典型的な例が、批判を浴びている「三願転入の教え」でしょう。


●次に、上の文章では、次のような表現で方法論を与えてしまっています。

聴なくして聞はない

善知識から教えを聞く「聴」を重ねて、弥陀の呼び声を聞く「聞」に到達するというのが、多くの親鸞会会員の理解だと思います。これでは、信心獲得(「聞」)のための「聴」という方法論になってしまっているのです。

さらに、このようにきいた人は、聴の先に聞があると理解するでしょう。しかし、それでは「平生業成」にならないのです。


浄土真宗は、聴を重ねて重ねて聞に辿り着くという教えではありません。

呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれ(行文類)

のお言葉から、吸う息吐く息に触れ合っているのが後生だと、現役親鸞会会員の方は聞いていると思います。そのような無常迅速の機を救うために建てられたのが阿弥陀如来の本願です。

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。(口伝鈔)

聴を重ねた先の救いではないのです。ただいま救う本願です。

次の瞬間の命を誰が保証してくれるのでしょうか?
今救われずしていつ救われるというのでしょうか?


上で引用した公式サイトの文章は以下のように続いています。


 次の「一心に弥陀に帰命すれば」とは、阿弥陀仏に信順したこと。

 善導大師は、二河白道の譬えで弥陀の呼び声を、「汝、一心正念にして直に来れ」と教えられている。

 親鸞聖人はこれを、「弥陀の招喚の勅命」と仰る。弥陀の「そのまま来い」のご命令に順ったことを「一心に弥陀に帰命」と蓮如上人は言われているのである。


弥陀の「そのまま来い」の勅命という表現はその通りですが、招喚の勅命に信順するのは遠い先のことではありません。

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく(信文類)
と二河白道の譬えで教えられているように、弥陀の喚びづくめなのです。今までも今も喚びづくめということです。

「そのまま来い」の勅命ですから、私には何も要求されてはいません。○○してから来いの勅命ではないのです。すなわち、「そのまま来い」とは、「ただいま救う」ということであります。

「そのまま来い」の弥陀の仰せを、ただいま聞くのです。
弥陀は、ただいま「そのまま来い」との仰せです。
その仰せを疑いなく計らいなく聞き受けるのが、信です。

吸う息吐く息と触れ合っているのが後生なのですから、ただいま聞くしかありません。
本願の思し召しは「ただいま救う」ということであります。
ただいま「そのまま来い」の本願の仰せを聞くのです。

「聴なくして聞はない」ではありません。
聴という過程を経ると思っているのは誤りです。

ただいま聞かせると、本願力が私の上にはたらいているのです。


●今回は、二つの表現を取り上げましたが、親鸞会では
・方法論を与える説き方(「本願力回向」に反する説き方)
・平生業成に反する説き方
が多々なされています。


このような話ばかりをきいていると、

求めてゆく過程は、時間がかかりますが、救い摂られるのには、時間がかかりません。
浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介 信心獲得は聴聞に極まるより引用)

という理解に陥ってしまいます。多くの現役会員の方は上のような理解ではないでしょうか?

・求めるプロセスがある(つまり方法論があるということ)
・今は救われずに、未来のあるときに救いがある(つまり平生業成に反している)
という理解が、上の短い言葉の中に浮き彫りになっています。

このような理解になってしまうのは、説く者の説き方に問題があると言わねばなりません。
浄土真宗を名乗りながら、説く者が18願のこころを全く伝えていないのです。

本願のこころが誤って伝えられているという事実に、はやく気づいて頂きたいと念じております。
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