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イダイケ夫人と定善

『なぜ生きる』(高森顕徹監修 一万年堂出版)169-171頁より引用。

 阿弥陀仏の浄土を拝見したイダイケ夫人が、
 ”弥陀の浄土へ往くには、どうすればよいか教えてほしい”
と言えたのは、
"教えられさえすればなんでもできる"
という自信というか、自惚れ心が言わせたものだろう。
 悪しか造れぬ者、地獄より行き場のない自分とは、ユメにも思えない。
 このわが身知らずの自己に暗い心も「無明の闇」である(その理由は、十九章で明らかにする)。「無明の闇」が苦悩の根元であることは、すでに述べてきた。
 この闇は、観念の遊戯では破れない。
 自惚れ心しかない人間の実態をよく承知の釈尊だから、はじめから、
「悪しかできないお前だよ。善のできる者ではない」
とは言われずに、
「できると思うなら、やってごらん」
と実地にさせてみられたのが、定善十三観である。
 できないと知り抜かれたうえで釈尊は、第一観から順次に、
「これができれば罪も消えるし、弥陀の浄土へも往ける。さあ、やってみなさい」
と勧められたが、真剣に心を集中しようとすればするほど、出てくるものは、アジャセと提婆への怒りと憎しみばかり。できた善はひとつもない。当然である。欲と怒りと愚痴のかたまりのイダイケに、できる善などあるはずがないのである。


親鸞会では、釈尊がイダイケ夫人に対して、日想観、水想観、地想観・・・と定善十三観を順次に勧められたと説明します。

アニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』でも、釈尊はイダイケ夫人にまず日想観を勧められ、イダイケ夫人には日想観ができないとなると水想観が勧められ、水想観もできなかったので次に地想観と、釈尊は定善十三観を順番に勧められていき、それをイダイケ夫人は実行しようとしたと、描かれています。

親鸞会の『観無量寿経』の理解についていくつかの批判がなされていますが、その一つが「日想観ができなかったから水想観、水想観ができなかったから地想観、地想観ができなかったら宝樹観・・・という親鸞会の説き方があり得ない」と批判です。ところが、『浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い』 で、トンチンカンな反論がなされています。

そこで、『観無量寿経』の原文から、どうして親鸞会のような説き方があり得ないのかを示したいと思います。
上記の親鸞会の説き方の誤りが分かりやすいのは、地想観、宝樹観の最初の部分だと思うので、その部分を赤字にしました。

(水想観)
次に水想をなせ。水の澄清なるを見て、また明了にして分散の意なからしめよ。すでに水を見をはりなば、まさに氷想を起すべし。氷の映徹せるを見て瑠璃の想をなせ。この想成じをはりて、瑠璃地の内外に映徹せるを見ん。
下に金剛七宝の金の幢ありて瑠璃地を擎ぐ。その幢、八方にして八楞を具足せり。一々の方面は百宝の所成なり。一々の宝珠に千の光明あり。一々の光明、八万四千色なり。瑠璃地に映ずること億千の日のごとし。つぶさに見るべからず。瑠璃地の上に黄金の縄をもつて雑廁間錯し、七宝をもつて界ひて分斉分明なり。一々の宝のうちに五百色の光あり。その光、華のごとし。また星・月に似たり。虚空に懸処して光明の台と成る。楼閣千万にして百宝合成す。
台の両辺において、おのおの百億の華幢、無量の楽器あり、もつて荘厳とす。八種の清風、光明より出でてこの楽器を鼓つに、苦・空・無常・無我の音を演説す。これを水想とし、第二の観と名づく。


(地想観)
この想成ずるとき、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。
閉目・開目に散失せしめざれ。ただ睡時を除きて、つねにこの事を憶へ。かくのごとく想ふものを名づけて、ほぼ極楽国地を見るとす。もし三昧を得ば、かの国地を見ること了々分明なり。つぶさに説くべからず。これを地想とし、第三の観と名づく」と。仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、仏語を持ちて、未来世の一切大衆の、苦を脱れんと欲はんもののために、この観地の法を説け。もしこの地を観ずるものは、八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて他世にかならず浄国に生ぜん。心に疑なきことを得よ。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。


(宝樹観)
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「地想成じをはりなば、次に宝樹を観ぜよ。宝樹を観ずとは、一々にこれを観じて七重の行樹の想をなせ。一一の樹の高さ八千由旬なり。そのもろもろの宝樹、七宝の華葉具足せざることなし。一々の華葉、異なれる宝色をなす。瑠璃色のなかより金色の光を出し、玻瓈色のなかより紅色の光を出し、碼碯色のなかより硨磲の光を出し、硨磲色のなかより緑真珠の光を出す。珊瑚・琥珀、一切の衆宝をもつて映飾とす。妙真珠網は、樹上に弥覆せり。一々の樹上に七重の網あり。一々の網のあひだに五百億の妙華の宮殿あり。梵王宮のごとし。諸天の童子、自然になかにあり。(以下略)

地想観の最初が「この想成ずるとき」ですから、水想観が成就した人に地想観が勧められることが分かります。同様に、宝樹観も最初に「地想成じをはりなば」と説かれていますから、地想観が成就した人に宝樹観が勧められていることが分かります。

水想観ができなかったら地想観、地想観ができなかったら宝樹観という親鸞会の説き方は、『観無量寿経』の説法とは正反対なのです。


なお、定善十三観についてですが、『21世紀の浄土真宗を考える会』観無量寿経のこころ その1 定善に簡潔にまとめられていましたので、引用します。

定善観には13種類あり、定善十三観と言います。
定善十三観は「依報観」と「正報観」に分けられます。
依報観とは阿弥陀仏の浄土の様相を観察すること
正報観とは仏や菩薩などを観察すること
です。
・依報観 日想観、水想観、地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観、華座観
・正報観 像観、真身観、観音観、勢至観、普観、雑想観

それぞれに「仮観」と「真観」があります。
仮観とは私たちが実際に目に見えるものを思い描くことであり、真観への導入に当たります。
日想観、水想観、像観の三観が仮観です。
真観とは浄土の荘厳を観察することです。
以下は以前の記事の再掲です。

○依報観
 [仮観]     日想観(十三観に対する準備)、
          水想観(地想観に対する準備)
 [真観]
  《通依報》   地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観
  《別依報》   華座観
○正報観
 [仮観]      像観
 [真観]
  《仏荘厳》   真身観
  《菩薩荘厳》 観音観、勢至観
  《自往生観》 普観
  《その他》   雑想観(仏荘厳、菩薩荘厳ができない人のために説かれた)

真観>仮観であり、
正報観>依報観であり、
仏荘厳>菩薩荘厳ですので、
第九真身観が一番勝れており、定善十三観の中心なのです。


定善十三観の準備段階の観想である日想観ができなかったら、それ以降の観想が勧められるはずがありません。



「定散二善が勧められているのだ」と主張するなら、せめて『観無量寿経』を拝読して頂きたいものです。そうすれば、一読してわかるような誤りを犯すことはないでしょう。講師部員はじめ一般会員に至るまで、誰もまともに『浄土三部経』を拝読したことがないのではないでしょうか?

また、『観経』の定散二善を根拠にして「親鸞聖人のみ教えには獲信の因縁としての善の勧めがある」といいながら、『教学テキスト』から『教学聖典』への改訂時に、「定善十三観」や「三福」の設問がなくなってしまいました。

いくら「親鸞聖人のみ教えには獲信の因縁としての善の勧めがある」と主張しても、その根拠としている定善・散善とは何なのかが分からなければ、実行することはできません。邪説に反論するといいながら、自分が意味の分かっていない言葉を連呼して、単に机上の空論をもてあそんでいるだけなのでしょう。

現役会員の皆様は、『観経』の定散二善を根拠にして「親鸞聖人のみ教えには獲信の因縁としての善の勧めがある」といいながら、定散二善の説明がなされていない現実に疑問を感じないのでしょうか?
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(蓮如上人)

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