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何よりも、「観経のすすめも、やはり諸善」とは、この言葉だけで酷いですね。

釈迦弥陀二尊、善導大師、宗祖聖人の御心を平気で踏みにじりながら浄土真宗を名乗る団体には、絶対に近寄ってはなりませんね。
  • 2010-07-06 00:59
  • Rudel
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「観経のすすめも、やはり諸善」と読んでも会員時代は何とも思いませんでした。現役会員もきっとそうでしょう。

外部の情報に触れてもらいたいものです。
  • 2010-07-07 23:07
  • いつもの元会員
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修行者の寿命が『本願寺なぜ答えぬ』だけ「3年」、その他では「5年」、では正しいのは?

『王舎城の悲劇』で登場する修行者(仙人)の寿命についてです。

最近、『本願寺なぜ答えぬ』を読んでいて気が付いたのですが、

観経のすすめも、やはり諸善より引用) 
 弥陀の19の願意を、釈尊が、『法華経』を中止してまで開説されたのが、王舎城の悲劇で有名な『観無量寿経』である。

 吾子ほしさに占いに迷い、〝とても3年は待てない〟と、夫ビンバシャラ王をそそのかし、修行者を殺害させた韋提希夫人。
 因果の道理に狂いなく、自分が産んで育てた阿闍世によって牢に入れられ、悲泣悶絶する。
 察知された釈尊が、今の地獄にのたうつ者こそ、弥陀の本願のお目当てと、自ら、王宮に降臨なされ『観無量寿経』を説き給う。


と、占いの結果、修行者の寿命は「3年」になっています。


一方、法話でもアニメでも『なぜ生きる』でも、修行者の寿命は、「5年」と説かれていました。
例えば、『なぜ生きる』(高森顕徹監修・一万年堂出版)149頁には、

「私の見るところ、山奥で長年修行している老人の寿命がつきると、御子が生まれられることになっております」
 大変よろこんだ二人は、
「して、その修行者の寿命は、どれほどか」
「あと五年でございます」
 五年と聞いたとたんに、二人から笑顔が消えた。


と書かれています。

つまり、修行者の寿命が『本願寺なぜ答えぬ』だけ「3年」となっており、その他では「5年」となっています。

では、正しいのはどちらなのでしょうか?
『観無量寿経』の解釈は、善導大師の書かれた『観無量寿経疏』によるのがよいと思いますので、
『観無量寿経疏・序分義』から引用します。

たちまちに相師ありて、王に奏してまうさく、「臣知れり。 山のなかに一の仙人あり。久しからずして寿を捨て、命終しをはりて後かならずまさに王のために子となるべし」と。王聞きて歓喜す。「この人いづれの時にか捨命する」と。 相師、王に答ふ。「さらに三年を経てはじめて命終すべし」と。王いはく、「われいま年老いて国に継祀なし。 さらに三年を満つるまでなにによりてか待つべき」と。

このように、仙人の寿命は「3年」と占われています。


また、『序分義』を拝読すると、親鸞会版『王舎城の悲劇』と異なる点がいくつかあることが分かります。興味のある方は、『序分義』を拝読してみて下さい。


「3年」なのか「5年」なのか、どちらでもいいのではないかと思われる方もあるかもしれませんが、親鸞会が、教えを説くときのいい加減さを知る一端になればと思います。



(追記)
『なぜ生きる』では「五年」、『観経疏』では「三年」であることを以前に、新人太郎さんに指摘している人がいました。http://www.geocities.jp/get5out/log/kizuna-bbs18.htmより引用します。

●シラン(726) 題名:一箇所の違い、新人太郎さんへ 投稿日:2001年8月22日<水>22時25分

『なぜ生きる』にあるきわめて単純で明瞭な誤りを指摘します。それは、「王舎城の悲劇」の話です。親鸞は、この話を『教行信証』で父対子の和解の話しとして引用していますが、親鸞会ではそれを母対子へと変えています。そして、もっとも明白は誤りは、占い師に予言された修行者の寿命を「五年」としている点です。この「五年」というのはどこの浄土教のもの「三年」としています。というのは、善導の『観経疏』の中で、「三年」としているとされているからです。「王舎城の悲劇」を親鸞会はビデオにして、その解説にごまかしたような釈明をしていますが、たいへんはずかしいことですね。三年か五年かというようなことは、たいへん細かな問題のようですが、親鸞会の体質をよく示しています。会長がどこかで一度(昔の『会報』)で間違えたときに、それが正しい理解となっているからです。会員は、善導はもちろん、親鸞の著作さえきちんと読んでいないでしょう。会全体が、その息ごみとは裏腹にたいへん粗雑に聖典を扱っているのです。どうか、新人太郎さんは、せめて華光会ぐらいの書物を読んで、冷静に判断して下さい。
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何よりも、「観経のすすめも、やはり諸善」とは、この言葉だけで酷いですね。

釈迦弥陀二尊、善導大師、宗祖聖人の御心を平気で踏みにじりながら浄土真宗を名乗る団体には、絶対に近寄ってはなりませんね。
  • 2010-07-06 00:59
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「観経のすすめも、やはり諸善」と読んでも会員時代は何とも思いませんでした。現役会員もきっとそうでしょう。

外部の情報に触れてもらいたいものです。
  • 2010-07-07 23:07
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