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いまの南無阿弥陀仏が証拠

『救済論序説』(稲城選恵著・永田文昌堂)118-119頁から引用。

宗祖の他力の信心は無疑と釈されている。無疑は不疑とはその意を異にする。無疑には決定が略され、決定は過去でも未来でもない。現在完了を場としている。あたかも今の天気の如くである。晴であると確信するということは誰しもいわない。晴という事実に面しているからである。蓮如上人の最晩年の歌といわれるものに
  「名号は 如来の御名と 思ひしに 
   わが往生の すがたなりけり」
  「阿弥陀仏 たすけたまへの ほかはみな
   おもふもいふも まよひなりけり」
        (真宗全、拾遺部下五〇九頁)
とある。このことは「御文章」四の八にも
「・・・その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし、これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり」(真宗全、歴代部四九一頁)
とあり、この私の往生のさだまりたる証拠が今ここに与えられているのが南無阿弥陀仏である。それ故、「おもうもいうも迷なりけり」といわれるのである。あたかも今ここの天気の如くである。確信とは正しく明日の天気をいう。ここに信仰と他力の信心とは全くその意を異にするのである。元来無疑と不疑はその意を異にするようである。不疑は明日の天気であり、無疑は今ここの天気である。名号は現前の仏勅といわれる。それ故本願や念仏には遇うといわれる。概念の世界の第三者から我と汝という二者の場にたつことである。このことは二河譬の上に最も明らかにされ、『愚禿鈔』巻下にもこの意を具体的に述べられている。



今ここに与えられている南無阿弥陀仏が我が往生の定まりたる証拠です。

南無阿弥陀仏は「我にまかせよ、汝を必ず浄土に連れてゆく」との招喚の勅命です。
その仰せにおまかせするより他にありません。

如来が一点の疑いもなく「連れてゆくぞ」との仰せなのです。
そのまま「参らせて頂きます」しかありません。

いまの南無阿弥陀仏が往生のさだまりたる証拠なのです。



御法話会場に参詣して、真剣にきいて、南無阿弥陀仏を頂こうと未来の救いを求めるのではありません。
今ここに届いている南無阿弥陀仏、「まかせよ、必ず助ける」の仰せを計らいなく聞き受けるのです。

真剣になるとか真剣にならないとか私の真剣さは問題にされてはいません。
「そのまま救う」との仰せです。
「真剣になってこい」の仰せでもなければ、「真剣になれない自分を知らされてこい」の仰せでもありません。
「そのままこい」の仰せです。


如来が自ら「我」と仰り、他の誰でもない私に向かって「汝」との仰せです。

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。(中略)
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。(愚禿鈔)



南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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