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「おほよそ八万四千の法門は~」の前後を拝読する

最近、親鸞会が自説防衛のために、よく根拠として用いているのが、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

の『一念多念証文』のお言葉です。
親鸞会のホームページにも、一切経は「浄土の方便の善なり」という記事が掲載されています。

また、親鸞会関係者のブログでも取り上げられています。
『浄土真宗親鸞会 熊本火の国のひろば 本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海』
『Tokyo Topics|浄土真宗親鸞会 東京ブログ 親鸞聖人に教えにみる善の勧め』


せっかくですので、上のお言葉をよく理解するために、『一念多念証文』の前後のお言葉を含めて拝読したいと思います。

『一念多念証文』は、隆寛律師が著された『一念多念分別事』に引かれている経釈の要文、及びそれに関連するお言葉を一念・他念の証文として挙げ、それに親鸞聖人が註釈を施されたものです。

まず、「おほよそ八万四千の法門は~」の前後の流れです。
『一念多念分別事』に引かれている『法事讃』の「上尽一形下至十念三念五念仏来迎 直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生」のお言葉を、親鸞聖人は「多念をひがごととおもふまじきこと」の証文として挙げておられますが、

『法事讃』の「上尽一形」「十念・三念・五念のものもむかへたまふ」「直為弥陀弘誓重」
についての註釈を記された後、
・『大経』の「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」
・『浄土論』の「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」
について書かれ、
再び『法事讃』に戻り「致使凡夫念即生 」の註釈を施されるという流れになっています。

そして、「おほよそ八万四千の法門は~」のお言葉は、『大経』の「如来所以~」の釈の中に出てきます。


では、『法事讃』の「上尽一形~直為弥陀弘誓重」についての親鸞聖人の註釈とその意訳を見てみましょう。

「上尽一形」(法事讃・下)といふは、「上」はかみといふ、すすむといふ、のぼるといふ、いのちをはらんまでといふ。「尽」はつくるまでといふ、「形」はかたちといふ、あらはすといふ、念仏せんこといのちをはらんまでとなり。
「十念・三念・五念のものもむかへたまふ」といふは、念仏の遍数によらざることをあらはすなり。「直為弥陀弘誓重」といふは、「直」はただしきなり、如来の直説といふなり。諸仏の世に出でたまふ本意と申すを直説といふなり。「為」はなすといふ、もちゐるといふ、さだまるといふ、かれといふ、これといふ、あふといふ、あふといふはかたちといふこころなり。「重」はかさなるといふ、おもしといふ、あつしといふ。誓願の名号、これをもちゐさだめなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせんとなり。


意訳(『一念多念文意講讃』梯實圓著 永田文昌堂 328頁より)

「上は一形を尽くし」というのは、「上」は「かみ」とか、「すすむ」とか、「のぼる」という意味であって、いのちが終わるまでということを表している。「尽」は「つきるまで」という意味である。「形」は「かたち」とか「あらわす」という意味で、いのちが終わるまで念仏せよという言葉である。
「十遍・あるいは三遍・あるいは五遍、称名する者であっても浄土へ迎え取ってくださる」というのは、如来の救いは、念仏の数に依るのではないということをあらわしている。「直に弥陀弘誓重きが為に」というのは、「直」は正しいということである。如来の正直の説法、すなわち真実にかなった教説ということである。諸仏がこの世に出現された本意を説き表されることを直説というのである。「為」は「なす(作)」ということであり、「もちいる(用)」、「さだまる(定)」、「かれ(彼)」、「これ(是)」、「あう(相)」ということである。「あう」という言葉は、その「相」には「かたち」という意味がある。「重」とは「かさなる(塁)」とも、「おもし(重)」とも。「あつし(厚)」ともいう。すなわち、諸仏がこの世に出現された本意は、阿弥陀仏の本願の名号を用いて、凡夫の往生を定めることを為したもうためであった。そのために名号のいわれを重ね重ね説き示されたのである。その甚厚なる思し召しを思いしれと教えられた言葉である。



以上、親鸞聖人が教えて下されているように、「如来の直説」、「諸仏の世に出でたまふ本意」は、阿弥陀仏の本願の名号を用いて、凡夫の往生を定めることを為したもうためでした。

この「如来の直説」ということについて、次の記事でもう少し触れたいと思います。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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