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他力の信心には自らの側にものがらは存しない

『救済論序説』(稲城選恵著・永田文昌堂)56-59頁より引用。

 次に他力の信心には自らの側に体ーものがらーの存しないことである。たとえばキリスト者は「アナタはキリストの神を信じていますか」と尋くと、直ちに「ハイ信じています」と答えるであろう。この場合は自らの側に「絶対に間違いない」と確信していることであろう。この逆は妙好人浅原才一翁の言葉に
「胸にさかせた信の花、弥陀にとられて今ははや信心らしいものはさらになし、自力といっても苦にならぬ、他力といってもわかりゃせぬ、親が知っていれば楽なものよ」
とある。彼には「信心らしいものはさらにない」とある。多くの宗教における信心は間違いのないものを自らの側の所有化するのである。それ故、信心をいただくということは自らの側にどう転んでも崩れないものが自らの側に存するように思われる。

(中略)

他力の信心をうるとか真実の信心をうるといわれている。うるとか獲得するということは自らの側に何か得たものが予想されるであろう。しかるに『教行信証』一部六巻の中で、「真実巻」には例外なく出体釈を出されている。即ちはじめの「教巻」では冠頭に
「それ真実の教を顕さば則ち大無量寿経これなり」
とあり、「行巻」にもはじめに
「大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり」
とある。また「証巻」にも
「謹んで真実証を顕さば則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり・・・」
とある。しかるに「信巻」には冠頭には大信心の徳を讃えた十二嘆徳の文を出され、出体釈は欠けている。しかし後の三心釈には出されているが、冠頭には欠けている。というのは信の体は前巻の「行巻」であるからである。それ故、『御文章』にも信心というも安心というも南無阿弥陀仏のほかにないといわれている。他力の心は前巻の名号と遊離しては成立し得ない。この点、二十願の行信各別の信と異なり、宗教一般でいわれる信仰の対象と信ずる主体とは格別であるのと異なる。真実の側の行信は方便二十願とことなり、行信不二である。



信心獲得ときくと、自分の側に何か確かなものをつかむのだと思うかもしれません。そして、自分の側に何かハッキリしたものをつかみたい、何か間違いないものを所有化したい、自分の側に何か証拠がほしいと思われている方があるかもしれません。しかし、他力の信心とは、自らの側に間違いのないものを所有化するのではないのです。

「勅命のほかに領解なし」といわれるように、「そのまま助ける」との南無阿弥陀仏の仰せの他に信心はありません。

「そのまま助けるぞ」の勅命なのだときいても、「そのままになろう」とか「そのままになっていないから」と自分の側を問題にし、「どうかなってのそのままだ」と思われるかもしれません。その「どうかなって」というのが、「そのまま」の仰せをはねつけているのです。私がどうなるのでもなく、私の何かが変化してでもなく、「今のそのまま助けるぞ」の勅命です。その勅命を計らいなく聞き受けている状態が信心です。

「そのまま助ける」のままが「そのまま助かる」です。

他力の信心といっても、南無阿弥陀仏の他にありません。

他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。(御文章3帖目2通)
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(蓮如上人)

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