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信楽とは如来の満足大悲円融無碍の信心海

親鸞会では、信楽について、大安心大満足の心、絶対の幸福などと説明されます。
その信楽について、親鸞聖人が信楽釈の最初に、信楽とは何かということを略述されているので、そのお言葉をみていきたいと思います。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。

現代語訳(『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』梯實圓著・本願寺出版195頁より引用)

次に信楽とは、苦悩の衆生を救済しようとする如来が、その完成された大悲と、あらゆる隔てを超えて衆生と完全に溶け合っている一如の智慧をもって、すべてのものを障りなく救うことができると確信されている、海のように広大な信心のことです。こういうわけですから、少しの疑い心もまじっていません(その仏心をいただいている衆生の心にも疑いはまったくまじっていません)。それゆえ信楽と名づけられたのです。


「信楽」とは、無疑心のことですが、ここでは如来の心として教えられています。

「満足大悲」とは、如来が永劫の修行によって一切の衆生を救うと誓った大悲の願を円満に成就されていることで、如来の大悲心の完成をいいます。

「円融無碍」とは、自他一如の知見のとおりに、一切の衆生と一つに溶け合って分け隔てのないことを円融といい、衆生の煩悩に妨げられることなく自在に救済する大悲のはたらきを無碍といいます。これは、如来の智慧の徳の完成をいわれたものです。

「信心海」とは、如来が完成された智慧の徳と完成された大悲心をもって、衆生を必ず摂取すると決定して疑いのない仏心のことです。

至心釈では、
如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
と如来が完成された円融無碍の智慧の徳を如来の至心といわれ、
欲生釈では、
欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
と如来の欲生心を大悲心とされています。
これを踏まえると、「如来の満足大悲円融無碍の信心海」とは、如来の智慧の徳である至心と、大悲の徳である欲生心とによって、決定無疑の信楽を成就されたことをあらわしているといえるでしょう。

「このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく」とは、このように智慧と慈悲が円満して、一切の衆生を障りなく救うと決定して少しの疑いもないから、信楽というのだと、信楽とは「無疑」を意味する言葉であることをいわれたものです。

信楽とは、私たちには本来ない心です。智慧と慈悲を完成された阿弥陀如来の上にのみある心です。本願力によって回向されて初めて、私の上に無疑心(信楽)が恵まれてきます。このことは、信楽釈のこの後の文章を拝読するとよく分かりますが、今回は省略します。ただ、『信文類』では、至心・信楽・欲生の本願の三心のそれぞれについて、私たち迷いの衆生は本来そのような心を持ち合わせておらず(機無)、それゆえ如来が三心を成就なされ(円成)、私たちに与えて下された(廻施)ことが述べられていることは押さえておくとよいでしょう。


如来の「必ず助ける」という無疑決定の心である信楽は、南無阿弥陀仏という本願招喚の勅命となって私たちに届いています。本願招喚の勅命を疑いなく聞き受けることが、すなわち信心(信楽)です。如来の無疑心は、本願の名号(南無阿弥陀仏)のいわれとなって私たちに届き、私たちの疑いの心を断ち切って無疑決定の信楽を成立させるのです。そのことを、親鸞聖人は、『信文類』に
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。
と説かれました。

ところが、「どんな気持ちで聴聞すればよいか、どんな姿勢で聴聞すればよいか」と私の側のきく姿勢ばかりを問題にしているのが親鸞会です。「真剣にキケ」「命がけのやりとりをする場が聴聞会場だ」などということばかりをきいてはいませんか?
『浄土和讃』の
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり

のお言葉も「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」ばかりが強調されていますが、大事なのは「何を聞くのか」です。上のご和讃では、「仏の御名をきく」と教えられています。ここを「仏教をきく」と説明するのは誤りです。「仏の御名」すなわち「南無阿弥陀仏」をきくのです。

私がどうするのかを聞くのではありません。
如来が何をなしたまうのかを聞くのです。

「信楽とは如来の満足大悲円融無碍の信心海」と親鸞聖人がお示し下されているように、如来が私を助けて下さることに一点の疑いもないのです。
その如来の無疑決定の仰せを聞くのです。
如来の「必ず助ける」という仰せを聞いているほかに信心はありません。

大安心大満足の心になりたいとか、絶対の幸福になりたいなどの「こうなりたい」は私の思いであって、この私の心を如来の仰せにさしはさむと、仰せを拒絶することになります。大安心大満足とか、絶対の幸福とかは忘れて、ただただ如来の仰せを仰いで下さい。
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コメント

[C187] 親鸞会の法話

親鸞会の法話についての感想です。
1.阿弥陀仏は私たちをどのように救済してくれるのか。
2.信心と念仏の関係
この2点一切説かれませんね。
ミカンに例えるなら皮ばっかりの話で実の話がまったくありませんね
あれでよいと思っている会員さんかわいそうですね。
講師共々救済はかなわないでしょうね。

[C189]

>岡本様

仰る通り親鸞会では、ご指摘の2点について全く説かれていません。

会員さんはあれでよいと思っているというよりも、本物の親鸞聖人の教えを知らないので、ミカンの皮を実だと思いこまされてしまっているのでしょう。
  • 2011-04-28 21:35
  • いつもの元会員
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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