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[C101]

「発菩提心」も軽視してますよね
「よしやるぞと奮発心を起こして」でしたっけ?
肝心のところが抜け落ちた解釈になってしまっている。

19願の「至心発願」は言わずもがな自力の菩提心であり、この世で悟りを開き、仏陀として衆生を導いていこうとする崇高な志を言うのであってそのために励むのが修諸功徳です。

逆に言えば、修諸功徳する理由は悟りをひらくという明確な目標のもとに行われるものであって、それ以外の目標で修諸功徳をどれだけ励んでも19願には該当してない。

「一切経で説かれたのはほとんど廃悪修善」と言って修善をすすめておきながら、その根本とも言うべき発菩提心は完全に無視してるんだからいつまでたってもスタートラインの一歩手前で足踏してるだけ、という状態になってしまうんですよね。
「よしやるぞ、という奮発心」ごときで発菩提心できたと思ってるならそれこそ思い上がりも甚だしいというしかないですね。

[C102]

>名無し様

コメント有り難うございます。

「発菩提心」の軽視について、同感です。

「発菩提心」の軽視については、後々に書こうと思っていましたので、今回は触れませんでした。「菩提心」についての記事を書くときに触れようと思います(いつになるかは未定ですが・・・)。
  • 2010-08-03 00:30
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親鸞会は19願の「至心発願」の軽視していませんか?

今日は、親鸞会における19願の「至心発願」の軽視と「諸善万行ことごとく」のご和讃について書きたいと思ったのですが、記事が長くなったのでこの記事では前者について述べます。

『一念多念証文』ー「おおよそ八万四千の法門は~」 の意訳
「雑行」についてもう少し書いてみました
で書いたように、要門の行体は、聖道門の行体と同じです。
諸善万行という行は、要門でも聖道門でも同じということです。
では、要門と聖道門の区別はどこでつくのでしょうか?

その区別をつけるのが、阿弥陀仏の19願に誓われている「至心発願欲生我国」の心で諸善万行を行じているかどうかです。「至心発願欲生」という信が大事なのです。

親鸞会では19願名の中でも「修諸功徳の願」ばかりが用いられていますが、親鸞聖人は19願名として、『化身土文類』に、

修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。

と5つの名前を挙げられ、『化身土文類』の標挙には、

[無量寿仏観経の意なり]
至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}


と「至心発願の願」を用いられています。

この「至心発願の願」という願名は、本来、聖道門の行であった諸善万行を、浄土に往生したいと至心に発願することによって「往生の行」に転換するという19願の特色を示す願名です。


親鸞会の法話や教学講義では、19願を短い時間で話をするとき、
・19願の約束の相手は「十方衆生」。
・約束の内容は一言でいうと、「修諸功徳」(親鸞聖人は19願を「修諸功徳の願」と言われています)。
の部分しか説明をしないことがありました。
しかし、これでは、要門と聖道門を分けるのに大事な「至心発願欲生」の信が抜けてしまっているのです。

例えば、弥陀の願心を伝える「善をしなければ信仰は進みませんよ」での説明は、
「本師本仏の阿弥陀如来が19願で勧めておられます。
 弥陀の19願は『修諸功徳の願(しゅしょくどくのがん)』
といわれますように、『諸の善(功徳)を修めよ、そうすれば助ける』と誓われた願です」

です。
また、弥陀の19の願意という記事もありましたが、「至心発願欲生」の信には触れられていませんでした。「廃悪修善」ということだけが述べられています。

なお、19願を開説された『観無量寿経』には、「至誠心・深心・回向発願心」の三心が説かれていますが、その説明も親鸞会では全くといっていいほどなされていません。


親鸞会は「往生浄土の方便の善」とか「要門」という言葉をよく用いますが、至心に発願して諸善万行を実行しなければ「往生浄土の方便の善」にはなりませんし、要門の行信にもなっていないことに注意して下さい。

また、現役会員さんは、「後生の一大事の解決のため」という言葉をよく使うと思いますが、「必堕無間の一大事を解決するため」という意味で使っている人が多いと思います。しかし、「無間地獄を逃れたいということ」と「阿弥陀仏の浄土に往生したい」ということはイコールではありません。
「至心発願欲生」の心で諸善万行を行ずるとは、浄土に往生したいと至心に発願して諸善万行を行ずることです。


19願や『観経』の顕説を根拠に「善のすすめ」と称するのならば、「至心発願」をもっと重視しなければならないと思います。

(つづく)
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「発菩提心」も軽視してますよね
「よしやるぞと奮発心を起こして」でしたっけ?
肝心のところが抜け落ちた解釈になってしまっている。

19願の「至心発願」は言わずもがな自力の菩提心であり、この世で悟りを開き、仏陀として衆生を導いていこうとする崇高な志を言うのであってそのために励むのが修諸功徳です。

逆に言えば、修諸功徳する理由は悟りをひらくという明確な目標のもとに行われるものであって、それ以外の目標で修諸功徳をどれだけ励んでも19願には該当してない。

「一切経で説かれたのはほとんど廃悪修善」と言って修善をすすめておきながら、その根本とも言うべき発菩提心は完全に無視してるんだからいつまでたってもスタートラインの一歩手前で足踏してるだけ、という状態になってしまうんですよね。
「よしやるぞ、という奮発心」ごときで発菩提心できたと思ってるならそれこそ思い上がりも甚だしいというしかないですね。

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>名無し様

コメント有り難うございます。

「発菩提心」の軽視について、同感です。

「発菩提心」の軽視については、後々に書こうと思っていましたので、今回は触れませんでした。「菩提心」についての記事を書くときに触れようと思います(いつになるかは未定ですが・・・)。
  • 2010-08-03 00:30
  • いつもの元会員
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