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[C103] 派外からの異説について

http://hongwan.net/4c5742db7b9db

元の文章全体を把握できたらということで、紅楳師の『派外からの異説について』をUPしてあります。

  • 2010-08-03 07:15
  • 林遊@なんまんだぶ
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[C104]

>林遊@なんまんだぶ様

コメントありがとうございます。

リンク先に加えました。
  • 2010-08-04 22:00
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『本願寺なぜ答えぬ』の誤り(4)ー「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」と本願寺が認めたかのように歪曲

前回の記事「往生浄土の方便の善」とは「獲信の因縁としての善」なのか?を読んでも、現役の会員さんの中には、「修善は獲信の因縁(宿善)になる」という考え方から抜け出せない方もあると思います。

「聴聞、勤行、六度万行を実践することで、宿善が厚くなって救われる」という親鸞会教義が強固に刷り込まれている影響でありましょう。

実は、親鸞会で説かれる宿善論は根本的に誤っています。

親鸞会の宿善論の誤りは多くのブログで取り上げられています。以下に主な記事のリンクを載せましたので、まだ読んだことのない方は読まれるとよいと思います。中でも『本願寺なぜ答えぬ』の巻末に全文載せると本文中に書きながら、高森会長が掲載しなかった(できなかった)紅楳英顕著『派外からの異説について』をよく読むことをお勧めします。

『親鸞会教義の誤り』
紅楳英顕著『派外からの異説について』
宿善とは1
宿善とは2
宿善とは3
宿善とは4
宿善とは5
宿善とは6
『21世紀の浄土真宗を考える会』
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで1
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで2
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで3(既出問題)


この記事では、『本願寺なぜ答えぬ』で、高森会長が「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」と本願寺が認めたかのように歪曲して文章を書いている点を指摘しておきます。

(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめより引用
(本願寺の主張を歪曲している文を指摘するために、赤字の強調は私がつけました。)

「善さえ励めば獲信できる」〝これが親鸞会の主張だ〟
 こんな本願寺の中傷を縁として、親鸞会は、聞法に勝る獲信の因縁(宿善)のないことを開顕し、〝仏法は聴聞に極まる〟ことを力説してきた。
 聴聞(聞法)の重要性には、本願寺も異存がないらしい。
「すべて他力になさしめられる」、という、かねての主張をかなぐり捨てて、こう仰有っているからだ。

「聞法(聴聞)を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない(回答書(B) P・18)

「聴聞については『聞其名号信心歓喜』の法であるから、已信・未信を問わず、みずから聞法につとめると共に、他の人たちにも聞法を勧めねばならないことはいうまでもない」(回答書(A) P・145)

 まこと、そうあってほしいもの。
 いくら本願寺でも、聞法と獲信の関係を断ち切れば崩壊することぐらいは、ご存知のようだ。
「聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない」と、珍しくも断言なさっている。ついでに、

〝大いに、すすめねばならぬワケ〟もききたいものだが、とにもかくにも、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを、タテマエだけでも、本願寺が認めたことはおめでたい。
 ところが、余りハッキリ容認すると、親鸞会非難の根拠を失うとでも思ってか、本願寺サン、おかしな弁明をなさっている。
「しかし、今生において聴聞に励むことは、どれほど懸命に努め励んでも、それはあくまで、救いの法をお聞かせいただくのであってこれを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとはいわないのである」(回答書(A) P・145)

 おかしいというのは外でもない。
ここで本願寺の、
〝宿善をつむといわない〟
ということが、

〝聞法は獲信の因縁(宿善)とはならない〟
ということならば、すでに、
「救いの法をお聞かせいただく聞法」
が獲信の因縁(宿善)になると、ちゃんと認めている
ことと、矛盾するからである。

 なんのことはない。
聞法は獲信の因縁(宿善)とハッキリ認めては、親鸞会攻撃の足場がなくなる。
 なんとかボカすための弁明と、カングルほかない。
それとも〝言わないだけ〟とでも、いうのであろうか。


この文章を読むと、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを本願寺がタテマエだけでも認めたものと思い込まされてしまいます。しかし、本願寺の論文そのものを読めば、それが事実を歪曲したものであることが分かります。

『本願寺なぜ答えぬ』の文章中に出てくる回答書(B)(『派外からの異説について』)では、上での引用文の直後に次のように書かれています。

そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのである。この意味から、存覚上人は、
  聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たも
  ちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おも
  ひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりば
  かりもよりつかざるなり。(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。


つまり、聴聞を破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱い、聴聞が最高の宿善になるという考え方が問題であると指摘されているのです。聞法が獲信の因縁(宿善)になることを本願寺がタテマエだけでも認めたどころか、実際は聞法が獲信の因縁(宿善)になるという考え方は間違いであると述べられている訳です。


新聞や顕真、著作物により、または講師部員の口から、「親鸞会に対してこういう非難がある」と、親鸞会が受けている非難が会員の皆さんに伝えられることがあると思います。その非難の内容ですが、実際の非難が歪曲されて伝えられている可能性がありますので、会員の皆さんは十分に気をつけて頂きたいと思います。
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  • 林遊@なんまんだぶ
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