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聖人は善導和尚の御身として称名の一行を勧めたまふなりとしるべし

「ワクチン投与に励む」親鸞会関係のあるブログで取り上げた、浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集いというブログですが、その中の
阿弥陀経 煩悩濁、外道の正体みたり

阿弥陀経 煩悩濁、外道の問題点を指摘
などで登場する「Kさん」のコメント全文が、『飛雲』
『観経』も『観経疏』も読んだことが無いのに、知ったか振り
O講師ブログへのもともとのコメント掲載
O講師、「聖道権仮の方便」はしなくてもいいのですか?
O講師が「勧学の説」と見做して理解できなかったコメント
に掲載されています。
このブログをご覧になっている現役会員さんで、まだ上記の記事を読んでいない方は理解できるまで繰り返し読んだらよいと思います。そして、教義批判に反論しない(できない)親鸞会に代わって、反論を考えてみて下さい。


さて、先日、2000畳で『親鸞学徒追悼法要』が勤められ、演題は、

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし


の『恩徳讃』だったそうです。『恩徳讃』の元になったといわれる聖覚法印のお言葉を、『尊号真像銘文』で親鸞聖人が次のように解釈されています。

「倩思教授恩徳実等弥陀悲願者」といふは、師主のをしへをおもふに、弥陀の悲願に等しとなり、大師聖人(源空)の御をしへの恩おもくふかきことをおもひしるべしとなり。 「粉骨可報之摧身可謝之」といふは、大師聖人の御をしへの恩徳のおもきことをしりて、骨を粉にしても報ずべしとなり、身を摧きても恩徳を報ふべしとなり。よくよくこの和尚(聖覚)のこのをしへを御覧じしるべしと。

ここに、「師主のをしへ」、「大師聖人(源空)の御をしへ」と繰り返し書かれているのは、法然聖人の教えのことです。その「法然聖人の教え」とは、どのような教えであったのかが『尊号真像銘文』のこの前の部分で教えられていますので、長いですが全文引用したいと思います。

法印聖覚和尚の銘文
 「夫根有利鈍者 教有漸頓 機有奢促者 行有難易 当知 聖道諸門漸教也 又難行也 浄土一宗者頓教也 又易行也 所謂真言止観之行 獼猴情難学 三論法相之教 牛羊眼易迷 然至我宗者 弥陀本願 定行因於十念 善導料簡 決器量於三心 雖非利智精進 専念実易勤 雖非多聞広学 信力何不備{乃至}然我大師聖人 為釈尊之使者 弘念仏一門 為善導之再誕 勧称名一行 専修専念之行 自此漸弘 無間無余之勤 在今始知 然則破戒罪根之輩 加肩入往生之道 下智浅才之類 振臂赴浄土之門 誠知 無明長夜之大灯炬也 何悲智眼闇 生死大海之大船筏也 豈煩業障重」{略抄}
 「夫根有利鈍者」といふは、それ衆生の根性に利鈍ありとなり。「利」といふはこころのとき人なり、「鈍」といふはこころのにぶき人なり。「教有漸頓」といふは、衆生の根性にしたがうて仏教に漸頓ありとなり。「漸」はやうやく仏道を修して、三祇・百大劫をへて仏に成るなり、「頓」はこの娑婆世界にしてこの身にてたちまちに仏に成ると申すなり。これすなはち仏心・真言・法華・華厳等のさとりをひらくなり。
「機有奢促者」といふは、機に奢促あり、「奢」はおそきこころなるものあり、「促」は疾きこころなるものあり。このゆゑに「行有難易」といふは、行につきて難あり、易ありとなり。「難」は聖道門自力の行なり、「易」は浄土門他力の行なり。「当知聖道諸門漸教也」といふは、すなはち難行なり、また漸教なりとしるべしとなり。「浄土一宗者」といふは、頓教なり、また易行なりとしるべしとなり。「所謂真言止観之行」といふは、「真言」は密教なり、「止観」は法華なり。「獼猴情難学」といふは、この世の人のこころをさるのこころにたとへたるなり、さるのこころのごとく定まらずとなり。このゆゑに真言・法華の行は修しがたく行じがたしとなり。「三論法相之教牛羊眼易迷」といふは、この世の仏法者のまなこを牛・羊のまなこにたとへて、三論・法相宗等の聖道自力の教にはまどふべしとのたまへるなり。「然至我宗者」といふは、聖覚和尚ののたまはく、「わが浄土宗は、弥陀の本願の実報土の正因として、乃至十声・一声称念すれば無上菩提にいたるとをしへたまふ、善導和尚の御をしへには、三心を具すればかならず安楽に生るとのたまへるなり」(唯信鈔・意)と、聖覚和尚ののたまへるなり。
「雖非利智精進」といふは、智慧もなく、精進の身にもあらず、鈍根懈怠のものも、専修・専念の信心をえつれば往生すとこころうべしとなり。「然我大師聖人」といふは、聖覚和尚は聖人(源空)をわが大師聖人と仰ぎたのみたまふ御ことばなり。「為釈尊之使者弘念仏之一門」といふは、源空聖人は釈迦如来の御つかひとして念仏の一門を弘めたまふとしるべしとなり。「為善導之再誕勧称名之一行」といふは、聖人は善導和尚の御身として称名の一行を勧めたまふなりとしるべしとなり。「専修専念之行自此漸弘無間無余之勤」といふは、一向専修と申すことはこれより弘まるとしるべしとなり。「然則破戒罪根之輩加肩入往生之道」といふは、「然則」はしからしめて、この浄土のならひにて、破戒・無戒の人、罪業ふかきものみな往生すとしるべしとなり。
「下智浅才之類振臂赴浄土之門」といふは、無智・無才のものは浄土門に赴くべしとなり。「誠知無明長夜之大灯炬也何悲智眼闇」といふは、「誠知」はまことにしりぬといふ、弥陀の誓願は無明長夜のおほきなるともしびなり、なんぞ智慧のまなこ闇しと悲しまんやとおもへとなり。「生死大海之大船筏也豈煩業障重」といふは、弥陀の願力は生死大海のおほきなる船・筏なり、極悪深重の身なりとなげくべからずとのたまへるなり。


「源空聖人は釈迦如来の御つかひとして念仏の一門を弘めたまふとしるべしとなり」
「聖人は善導和尚の御身として称名の一行を勧めたまふなりとしるべしとなり」
「一向専修と申すことはこれより弘まるとしるべし」
と教えられていますように、法然聖人が勧められたことは「称名念仏の一行」です。

なお、上のお言葉で出てきます「一向専修」ということを親鸞聖人は、『一念多念証文』では、

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と説かれています。「一向」とは念仏以外の他の善に心を移さず、阿弥陀仏以外の仏を念じて救いを求めるようなことをしないことであり、「専修」とは、二心を雑えずに、本願の名号だけをもつぱら称えることです。

ここからも、法然・親鸞両聖人のお勧めは、「本願のみなをふたごころなくもつぱら修する」という十八願一つであったことが分かります。


親鸞会でも「一向専念無量寿仏」という『大経』のお言葉が教えられていますが、阿弥陀仏以外の仏に向くなだけではないのです。「念仏以外の他の善に心を移すな」という意味でも教えられていることを現役会員の皆様には是非知って頂きたいと思います。


しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(選択本願念仏集・三輩章)
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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