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「仏法にはまいらせ心わろし」と親鸞会で抜けている「本願力の回向」

一 蓮如上人仰せられ候ふ。仏法にはまゐらせ心わろし。これをして御心に叶はんと思ふ心なり。仏法のうへはなにごとも報謝と存ずべきなりと[云々]。(蓮如上人御一代記聞書・135)

(現代語訳)
蓮如上人は、「仏法では、功徳を仏に差しあげようようとする心はよくない。それは自分の力で功徳を積み、仏のお心にかなおうとする自力の心である。仏法では、どんなことも、仏恩報謝のいとなみと思わなければならないのである」と仰せになりました。


「○○したら救いに近づくだろう」
「○○したら信仰が進んで助かるだろう」
「○○したらはやく進むだろう」
「○○したら宿善になって信心獲得(後生の一大事の解決)に近づくだろう」
などと思って活動に励んでいるのは、自分のやった行為を仏に差し向けて救いに役立てようとしているすがたです。
そのような人に対して「仏法にはまゐらせ心わろし」と蓮如上人は仰っています。


2000畳に参詣すれば、真剣に聞けば、一座でも多く聴聞すれば、一言一句聞き漏らさずに聴聞できたら、集中して聴聞できたら、教学を覚えたら、・・・、助かるだろう。
これらはみな「これをして御心に叶はんと思ふ心」です。


・修善は獲信の因縁になる
・善をしなければ信仰は進みませんよ
・修善と獲信はよい関係にある
・これらの修善の勧めが獲信と無関係であるはずがない
などと説いて、「まゐらせ心」、「これをして御心に叶はんと思ふ心」を助長しているのが親鸞会の説き方です。蓮如上人の説かれ方と反対です。


親鸞会が全く理解していないことの一つは、「全て本願力の回向」ということです。

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。(証文類)

(現代語訳)
さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。

その如来の回向に対して、自分の方から信じてかかろうとすると、拒絶になります。
仏の側からすでに与えられているものに対し、自らが先行すると、仏のはたらきを拒絶することになるからです。あたかもドアが「引く」とあるのを「押す」とするのと間違うようなものです。私の側から押せば押すほど、動かないようになります。向こう側からはすでに開かれているのに、逆にするからです。

難信とは、自力では絶対に信ずることが不可能なこと、そして、その信心は如来回向の信心であることをあらわしたものです。親鸞聖人は、『信文類』に、

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

(現代語訳)
ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

と教えられています。これについて、『21世紀の浄土真宗を考える会』極難信で、加茂仰順師の著作がアップされていたので引用します。

もしも真宗のおみのりは聞けば聞くほど難しいという者があるならば、それは理屈を知ろうと思うからです。真宗は、無上の妙果に至らせていただくのですが、その無上の妙果に至るのは易いが、真実の信心を得ることが難しい。なぜ難しいのかというと、真実の信心は、如来の加威力によるからである。また如来の大悲広恵の力によるからである。つまり、如来から与えて下さるものだから難しいのであります。
 それはまたなぜでありましょうか。与えて下さるものを私がつかもうとするから難しいのであります。
 与えて下さる如来の名号の親心を私がすなおに聞けばよいのですのに、それを私がしっかり信じてとか、称えてとか手を出します。ここに難しいといわれるところがあります。聞けば聞くほど難しいのではありません。聞いて信じて、しっかりなってと私が難しくしているのです。聞いて、こういうおかげでと理屈で知ろうと思うのです。私が信ずるということ、しっかりなろうとすることに力を入れるから難しいのです。
 如来はしっかり信じたら、称えたら、しっかりなったらというのではありません。よい加減のことであればどうでもよいのですが、弥陀のおさとりの得られるだけのものだとなると、私ごとき者に出来るものではありません。だから、こちらからどうにかなってではなく、如来からそのお助けがあらわれて下さらねばなりません。
 それは私が見とどけてとか、それをしっかり仕とおせとかいうものではありません。
 如来のお助けはよびごえとなって、私の中へあらわれて下さるのであります。如来のお助けのはたらきが声となってあらわれて下さるのであります。この私のあさましさに泣いているのであればまだしもですが、今のすがたが悪いとも気付かず、これでよいのだという日暮しをしております。それゆえこの私に慈悲の涙を流されているのです。
 この私のために本願をたて、それを仕上げていま南無阿弥陀仏となって、私を喚んで下されてあるのです。あさましい私を知って、その知った私を助けて下さるのが南無阿弥陀仏だとなると、罪福信ずる行者になります。お助けも代償になってしまいます。私は自分のことも問題とせず、しらぬ顔の者だそうですが、私が問題とせねばならぬことを、如来が心配して下さるのが真宗であります。私の助けられてゆく法までを如来が心配下されて、成就して下されたのが南無阿弥陀仏であります。それゆえ南無阿弥陀仏を向こうに置いて信じにかかるのではなく、南無阿弥陀仏のはたらきが、私にあらわれて下さるのであります。(中略)そういういわれの南無阿弥陀仏を、信じよう、いただこうとと手を出すものですから、いただけないのです。難信の法とは、ここのところを仰せられたのです。難しいのは法ではありません。ゆきやすい、こころえやすい法を私の計らいをもって、いただきにかかるところに、難信の法にしてしまっているのであります。



「善をしなければ信仰は進みませんよ」と、自らの側から仏に向かって進んでいくかの如くに説く親鸞会の説き方は、親鸞聖人の教えられた「本願力の回向」ということが抜けてしまっているのです。いや、抜けているというより、反しているといった方が適切かもしれません。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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