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「なぜ私は親鸞会をやめたのか」をリンクに加えました

なぜ私は親鸞会をやめたのかをリンクに加えました。高森会長の盗作問題、高森会長への無条件服従の問題、親鸞会とお金の問題など、親鸞会の様々な問題点が取り上げられているサイトですので、現役会員の方には是非とも一読して頂きたいと思います。

さて、最近、話題になっている「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」ですが、その中の 七大経-23(四つの角目を聞け、善導大師の古今楷定の六字釈)の記事の一部は『会報2集』の丸写しです。そして、その部分が、大沼法龍氏の著作のほぼ丸写しであることが、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の中の高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(1)で指摘されているので、今日はその部分を引用したいと思います。

大沼法竜著 「法界」 P337
善導釈していわく『南無と言うは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏と言うは即是其行なり、斯の義を以ての故に必ず往生する事を得と言えり』と教えてあるが、南無とはたのむ機の方であり、阿弥陀仏と言うは助くる法の方であり、たのむ機の方までも十劫の昔六字の中に成就して有るから法体成就の機法一体と言うのであるが


高森顕徹著 「会報 第2集」 P46 上段
善導大師は「南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生する事を得るといえり」と教えて南無とはタノム機の方であり阿弥陀仏とは助くる法の方である。タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。


大沼法竜著 「法界」 P337
下三品の人間は無善造悪で業に攻められ、苦逼失念で苦に追い立てられて居るのだ。念仏は称えて居るけれども因縁を結ぶだけであって何時の世にかは往生を得るので即得往生をしたのでない。遠生の結縁と成るだけで次生に往生即成仏を得るのではない、別時意である。


高森顕徹著 「会報 第2集」 P47 上段
下々品の人間は無善造悪で業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
(略)
だから十念の称名念仏は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。今はただ遠生の結縁になるだけである。にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。


大沼法竜著 「法界」 P338
善導が、大体、観無量寿経は心想るい劣の韋提が対機ではありませんか、定散二善に堪えない機を救うのが阿弥陀仏の目的ではありませんか、第九の真身観の仏は光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と申されたのは下根下劣の下三品を念仏によって救済するのが目的ではありませんか。
(略)
散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品がどうして観念が出来ましょうに。仏の慈悲は苦なる者においてす、岩上の者よりは溺れて居る者から救わなければなりません、だから付属の文に来れば廃観立称して有るではありませんか。


高森顕徹著 「会報 第2集」 P48 下段
観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して「大体観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀仏の目的ではないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、仏の慈悲は苦あるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。


大沼法竜著 「法界」 P339
南無と言うは帰命、亦是発願廻向の義であり阿弥陀仏と言うは即是其行、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其人の行となる。願と行とが六字の中に調えて有るから必ず往生する事を得るのではないか。願行具足々々と言って凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行かれない。仏の願行を機無円成するが故に仏の世界に行かれるのではないか


高森顕徹著 「会報 第2集」 P49 上段
南無というは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち是その行なり。如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中にととのえてあるから必ず往生が出来るのだ。願行具足といっても凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫が願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。仏の願行を機無、円成するが故に、仏の世界に行かれるのだ。


また、 七大経-23(四つの角目を聞け、善導大師の古今楷定の六字釈)の内容の誤りについては、
念仏別時意説を唱えたのは天台、浄影、嘉祥ではありませんで取り上げられているのので、参照して下さい。簡潔に言うと、
・念仏別時意説は天台、浄影、嘉祥の説ではなく、摂論宗の学僧たちの説であること
・願行具足と機法一体を混同した説明がなされていること
が指摘されています。


このように盗作して書いた本を、全て自分が書いたかのように振る舞っている人物が、本当に無二の善知識なのかどうか、現役会員の方には考えて頂きたいと思います。
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