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「一つの善もできない悪人」という言い方を考える

親鸞会で話を聞いている人は、
「一つの善もできない悪人」
「微塵の善もできない極悪人」
といった言葉をよく聞くと思います。

その根拠として出されるお言葉はいろいろありますが、『教行証文類・信文類』の至心釈、信楽釈のお言葉が『教学聖典』(2)に挙げられています。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

これらのお言葉の現代語訳は

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。


です。ここで、親鸞聖人の仰っていることは、

「真実報土に往生するような善は一つもできない」

ということです。言葉を換えれば、

「生死を離れるような善は一つもできない」

ということです。『歎異抄』第3章の

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、

もそれを仰ったものです。

善導大師の「機の深信」のお言葉も、

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(散善義)

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。(往生礼讃)


と、「自分の力では迷界から出離できないことを信知した」と仰ったお言葉です。


親鸞会の言うような「一つの善もできない悪人」とか「微塵の善もできない極悪人」では言葉が不十分なのです。
阿弥陀仏の浄土に往生するような善が一つもできない
仏になるような善が一つもできない
生死を離れるような善が一つもできない

としなければなりません。


さらに、親鸞会では、「一つの善もできない悪人」と知るには、
できるかできないか、やってみなければどちらもハッキリしない
などといい、実地に善に励まなければならないと教えていますが、これも誤りです。そのようなことを親鸞聖人はどこにも教えられていません。

そもそも親鸞会理論によるならば、「報土往生するような善が一つもできない」と知らされるためには、「報土往生するような善」を実践しなければなりません。自分の力で報土往生しようとするならば、法蔵菩薩がなされたのと同じ修行を実践しなければならないのです。その法蔵菩薩の御修行について、『大無量寿経』には、次のように説かれています。

不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して作なく起なく、法は化のごとしと観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。

(現代語訳)
このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。 空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。

『大経』の御文を引用しましたが、果たして親鸞会ではこのような善が勧められていますか?
親鸞会で勧められている活動は、報土往生するような善でないことがお分かり頂けると思います。つまり、親鸞会理論に基づいて考えた場合でも、親鸞会で勧められている活動を実践して「阿弥陀仏の浄土に往生するような善が一つもできない」と知らされることはないのです。


生死を離れるような善が一つもできず、迷いの世界を果てしなく流転しているのが私たちだと見抜かれた阿弥陀仏(法蔵菩薩)は、『大経』に説かれているような御修行をなされたのでした。その御修行は「もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ」と説かれているように、私たちの上にその御修行の功徳を「成就せしむ」、すなわち与えるためでありました。長い時間にわたって御修行なされた一念一刹那も私のための御修行でないことはなく、御修行なされた一行一行全て私のためであったのです。その御修行の末、完成なされた南無阿弥陀仏。その南無阿弥陀仏を私に与えて下されたのです。

このことを、親鸞聖人は、『信文類』の至心釈に、

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

(現代語訳:『聖典セミナー教行信証[信の巻]』梯實圓著152-153頁より)
生けとし生けるすべてのものは、はかり知れない遠い昔から、今日ただいまに至るまで、醜い煩悩によって心は汚染されて清らかな心はなく、虚しい偽りと諂いに満ちていて、生死を超えるようなまことの心はまったくありません。このように果てしない苦悩の大海を漂っている衆生のありさまをみそなわして、如来(法蔵菩薩)は深い哀れみの心をおこし、苦悩の衆生を救おうと願い、思いはかることもできない永劫の時をかけて衆生救済のための菩薩行を実践されました。その間、身業も、口業も、意業も、すべての修行は、一瞬といえども清浄でない行いはなく、真実の心をもってなされないことはありませんでした。如来は、その清浄真実な心をもって、あらゆる修行を完成し、一切の対立を超えて、すべてが一つに溶け合い、すべてが障りなく融通していることをさとる究極の智慧を完成していかれました。それは思いはかることも、讃え尽くすことも、説き尽くすこともできない至極の徳ですから、至心といいます。如来は、成就された至心を、煩悩によって悪業をおこし、自己中心的な邪見に陥って迷っているあらゆる衆生に施し与えてくださいました。こういうわけですから、第十八願の至心は、如来より与えられた真実心であるということを表しています。それゆえ、そこには真実を覆い隠すような疑いの心のまじることはありません。この至心は、すなわち如来の至極の徳そのものである南無阿弥陀仏として衆生に与えられますから、至心は尊号を本体としています。

と教えられています。浄土に往生することのできるような清浄真実な心のない私たちのために、阿弥陀仏は兆載永劫の御修行をなされ、南無阿弥陀仏を完成なされ、与えてくだされたのだと説かれています。


自分が善を実践して、「阿弥陀仏の浄土に往生するような善が一つもできない」、「自分の力では生死を離れることはできない」、すなわち自力無効と知らされるのではありません。

前回の記事のコメント

高森会長の著作に
「自力いっぱい求めたことのない者に、
自力無功と知らされるはずがありません」
との表現がありますが、
完全にアウトだと思います。


という意見を頂きましたが、全くその通りです。


如来回向の南無阿弥陀仏が自力無効と知らせて下さるのです。

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(信文類)

「仏願の生起本末」とは、上で引用した至心釈のお言葉の内容に他なりません。
仏願の生起本末(南無阿弥陀仏)を計らいなく聞き受けることが信心です。
その信心を機と法の二種に開いて教えられたのが二種深信であり、
・機の深信ー信機ー自力無効
・法の深信ー信法ー他力全託
という関係になります。詳しくは、『21世紀の浄土真宗を考える会』安心論題講述(大江淳誠著)より 二種深信を参照して下さい。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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