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>形像本尊は宗義に反するものと断定するようなことは、方便法身の無理解からくるものであって、それらの人々は、たとい名号本尊を礼拝の対象としていても、安置されている名号本尊の意義すら理解されていないのではなかろうか。

まさに山田和上の指摘される通りですね。鋭い方ですね。
会長ならびに幹部は、口では南無阿弥陀仏のご名号を「根本に尊ぶもの」とか言いながら、本音を言えば本尊は会長という人物以外の何者でもありませんね。
南無阿弥陀仏のおいわれを誰もまともに説きませんから、S会員はコラージュ本尊を「幸福製造機」ならぬ「宿善ポイント発生装置」としか思っていないのが実情です。「この正御本尊の前でお勤めをすると、宿善ポイントがたまります」程度の。
あるいは「前川製造機」と呼ぶのが相応しいかも知れませんね。
かまたさぁ~ん
  • 2010-09-05 18:52
  • がすしつがかり
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[C112]

>がすしつがかり様

仰る通り、「この正御本尊の前でお勤めをすると、宿善ポイントがたまります」と思っている会員さんは多いと思います。南無阿弥陀仏のご名号について説かず、形式ばかりを重視する親鸞会だと思います。
  • 2010-09-08 23:35
  • いつもの元会員
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本尊論でも相手の批判を無視し続ける親鸞会

『浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い』七大経-36(四つの角目を聞け、御本尊は御名号)では、浄土真宗における本尊についての高森会長の文章がアップされています。

本尊論についての論戦も、親鸞会内部からの情報しか手に入らないと、親鸞会が本願寺に勝ったかのように思いますが、実はそうではありません。

『親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか』4.反論できない真宗本尊論で取り上げられていますが、『現代の教学問題――派外からの論議について――』(宗義問題研究会)所収の山田行雄「真宗の本尊について」には、山科本願寺の阿弥陀堂の本尊が木像本尊であったことが書かれています。

『苦笑の独り言』真宗の本尊についてより引用。

五、蓮如上人の本尊について

 蓮如上人の本尊は、具体的には、蓮如上人が発願建立された山科本願寺の阿弥陀堂の本尊であろう。
 文明十五年八月二十八日のご文に、

  阿弥陀堂の仏壇(中略)いくほどなくして出来せり。則まづ本尊を六月十五
  日にはすえ奉りけり。(『真聖全』五-四〇六)

と述べられ、山科本願寺の阿弥陀堂の本尊は文明十四年六月十五日に「すえ奉」られたとある。平尾興栄氏も注意されたごとく、このすえ奉られた本尊が形像本尊であったか名号本尊であったかは、「据える」とある表現からも推察されるが、実悟師の『山科御坊之事並其時代事』に阿弥陀堂の荘厳を記するに、

  本尊木像安阿作 如今。左方北太子絵像讃如常蓮如御筆・六高僧御影。右南法然聖人
  一尊御影讃如常蓮如御筆両方共に三具足・燈台あり。(『真聖舎五ー六二九~六三〇)

とあり、ここに本尊木像(安阿作)とある。明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実である。


この「山科本願寺の阿弥陀堂の本尊が木像本尊であった」という事実は、現在に至るまで親鸞会会員に伝えられてはいません。

また、稲城選恵著『御文章概要ー蓮如教学の中心問題ー』412-416頁には、蓮如上人が「方便法身尊形」の絵像や「方便法身尊像」の木像を下附されていたことが述べられています。

少なくとも「親鸞聖人も蓮如上人も名号のみを本尊とされた」という主張を親鸞会は撤回すべきではないでしょうか?


さらに、「真宗の本尊について」では、親鸞会は名号本尊を用いていても、名号を本尊とする意義を理解できていないのではないかという指摘もなされています(以下の文中赤字部、色は私がつけました)。浄土真宗で用いられる絵像木像は『観経』に説かれる住立空中尊ですが、それと名号との関係についても述べられているので、長くなりますが以下に引用します。

九、仏体と名号について

『観経』に説かれる住立空中尊とは、
  仏、阿難及び章提希に告げたまわく、諦かに聴け諦かに聴け。善くこれを
  思念せよ。仏まさに汝が為に苦悩を除くの法を分別し解説すべし。汝等憶
  持して、広く大衆のために、分別し解説せよ。この語を説きたもう時、無
  量寿仏、空中に住立したもう。観世音・大勢至、この二大士左右に侍立せ
  り。光明熾盛にして、つぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も、比と
  なすことをえず。(『真聖舎一-五四)
とあり、ここに阿弥陀仏が、二菩薩を伴つて空中に住立したもう姿が説示されている。
 ここに真宗教学上、種々の問題がある。いま特に必要な二点について考えてみる。
 (一)真宗本尊の形像を『観経』に依ったことの問題である。宗祖は『教行信証』教巻に「夫れ真実の経を顕わさば大無量寿経これなり」(『真聖全』二ー二)と示され、浄土三部経のなか『大経』こそが真実の経であるとされた。そして『大経』には阿難及び四衆が見てたてまつった大光明を放った阿弥陀仏の姿が説かれている。それが真宗の形像本尊の依りどころであって、隠顕の両義のある『観経』を依拠とするのは、法門上許されることでないという。この『大経』説か『観経』説かで論諍を起こしたのが、真宗教学史上、三大法論の一つ「明和の法論」である。現在では『観経』説が妥当であろうとされている。明和の法論の論讃の内容に,ついては、(イ)報身応身の問題、(ロ)脇士有無の問題、(ハ)の大悲顕現の問題、(二)立像坐像の問題の四点に集約されよう。
 (イ)『観経』華座観の所説のなか、釈尊が韋提希に対して「苦悩を除く法」を説かれようとした時、突然に阿弥陀仏が住立したもうた。「苦悩を除く法」とは教法であり、阿弥陀仏は仏身である。釈尊が教法を説こうとされたとき、仏身で対応されたことは、教法対仏身という矛盾が起きないだろうかの問題である。
 これについて、善導大師は『定善義』に住立空中尊を解釈して自問自答されている。

  弥陀空に在りて立したもうは、但廻心し正念にして我国に生ぜんと願ずれ
  ば、立どころに即ち生ずることを得しむることを明かすなり。
  問て曰く。仏徳尊高なり、輒然として軽挙すべからず。既に能く本願を捨
  てずして来りて大悲に応う者、何が故ぞ端坐して機に赴かざるや。
  答て曰く。此れ如来別に密意ましますことを明かす。ただ以んみれば娑婆
  は苦界なり。雑悪同じく居して八苦あい焼く、動もすれば違返を成じ詐り
  親みて笑みを含む、六賊常に随いて三悪の火こう臨臨として入りなんと欲す。
  若し足を挙げて以って迷いを救わずんば、業繋の牢、何に由ってか免がる
  ことを得ん。斯の義の為の故に、立ちながら撮りて即ち行き、端坐して以
  て機に赴くに及ばざるなり。(『真聖全』一ー五一四)

と。すなわち阿弥陀仏の「立つ」姿は「来たりて大悲に応う」のであり、三悪の火こうに堕しくいく苦悩の衆生を救済して止まぬ大悲の表象である。「撮る」とは大悲の活動を示すものであり、大悲の活動とは具体的には招喚の勅命である。このように考えてくるとき、釈尊が名号法(除苦悩法)を説こうとされたと同時に、阿弥陀仏が住立したもうたのは、矛盾どころか当然といわねばならぬ。
すなわち、韋提希が仏説を聞くに臨んで、声に応じて「苦悩を除く法」とは我なりと、阿弥陀仏が現身したもうたのである。よって、名号即仏体であり、仏体即名号である。名の他に体があるのではなく、また名の他に体を求むるものではないのである。
 阿弥陀仏は自利利他が不二一体に成就したもう覚体であるから、如来の正覚を全うじて衆生往生の行となり、名号は仏体の徳を全うじて衆生に聞信せしめたもうのである。すなわち如来の徳の全体が名号の内容であり、仏体と名号は不二である。
 しかし、所信をいえば、名体不二の名号をもって真宗のすわりとするのである。その理由は、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とあるからである。
 だからといって、名号を信ずるのであって、阿弥陀仏(仏体)を信ずるのではないとはいわない。礼拝の対象とする本尊は名号のみであって、形像は礼拝の対象とせぬという論は成立しない。なぜなら、仏体と名号とは不二であるからである。この名体不二論をふまえずして、本尊論を語るところに、高森親鸞会のような偏見が生ずるのであり、また宗祖が名号本尊の裏書きに「方便法身尊号」と記された深意を無視する結果にもたる。この偏見の行きつくところ、たとい名号を本尊として礼拝の対象としていても、その名号を本尊とする意義すら理解できぬため、名号本尊をも偶像化する危険がありはしないだろうか。

十、方便法身について

真宗における礼拝の対象としての名号本尊の裏書に「方便法身尊号」とあり、形像本尊の裏書には「方便法身尊形」と記され、共に方便法身とある。
 方便法身の語を最初に出すのは、曇鸞大師の『往生論註』であるが、そこにま、法性法身と方便法身の二種の法身を出し、その関係を「由生由出」と示してある。宗祖はこの二種法身を解釈されて『一念多念文意』には、
  一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、无碍のち
  かひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆへに報身如
  来とまふすなり。これを尽十方无碍光仏となづけたてまつれるなり、この
  如来を南无不可思議光仏ともまふすなり。この如来を方便法身とはまふす
  なり。方便とまふすは、かたちをあらわし、御名をしめして、衆生にしら
  しめたまふをまふすなり。すなわち阿弥陀仏なり。(『真聖全』二ー六一六)

と述べられている。すなわち「かたちをあらわし、御名をしめして、衆生にしらしめたまふ」のが方便法身である。
 宗祖は名号を「方便法身の尊号」として敬信せられたのであるが、その「方便法身の尊号」と意義において変わることのない「方便法身の尊形」を本尊としても、宗義の上から何の問題もないことである。
 形像本尊は宗義に反するものと断定するようなことは、方便法身の無理解からくるものであって、それらの人々は、たとい名号本尊を礼拝の対象としていても、安置されている名号本尊の意義すら理解されていないのではなかろうか。



上で指摘されている通り、親鸞会では名号本尊の意義が理解されていないと感じます。

そもそも、親鸞聖人が依用された十字名号「帰命尽十方無碍光如来」について、『尊号真像銘文』では次のように教えられています。

「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。

「帰命尽十方無碍光如来」とは、阿弥陀仏の救済活動の行き渡っていない場所はないという名号の活動相をあらわされた御名なのです。つまり、名号法はどこでも働いていることです。「どこでも」とは、「ここ」ということです。私がどこにいようと、私が存在するここに名号法は既に与えられているのです。そして、私が聞くに先行して与えられている名号法を聞信すると同時に即得往生の益をえて、平生に往生の業事が成弁するのです。

また、「住立空中尊」の立撮即行の尊形も、三悪の火坑に堕せんとする苦悩の衆生を救済して止まぬ大悲の活動をあらわされたお姿です。

つまり、「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号も、立撮即行の尊形をあらわされた木像や絵像も、南無阿弥陀仏の名号法がこの私の上に活動しているすがたをあらわされたものに他なりません。蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛された『安心決定鈔』には、

かるがゆゑに名号をききても形像を拝しても、わが往生を成じたまへる御名ときき、「われらをわたさずは仏に成らじと誓ひたまひし法蔵の誓願むなしからずして、正覚成じたまへる御すがたよ」とおもはざらんは、きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし。

と教えられています。名号も形像も、本願成就のすがたをあらわされたものなのです。

南無阿弥陀仏の六字の名号を本尊としていながら、名号法の活動相が全く説かれず、名号本尊をも偶像化されてしまっているのが、現在の親鸞会ではないでしょうか?
その名号法の何たるかが説かれていないところに「善をしなければ信仰は進みませんよ」などという邪義が生まれる温床があるのだと思います。


都合の悪い情報は会員に隠して論争に勝ったように装い、自分に向けられている批判にはまともに答えない親鸞会。その体質は、今日に至るまで変わっていないようです。
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>形像本尊は宗義に反するものと断定するようなことは、方便法身の無理解からくるものであって、それらの人々は、たとい名号本尊を礼拝の対象としていても、安置されている名号本尊の意義すら理解されていないのではなかろうか。

まさに山田和上の指摘される通りですね。鋭い方ですね。
会長ならびに幹部は、口では南無阿弥陀仏のご名号を「根本に尊ぶもの」とか言いながら、本音を言えば本尊は会長という人物以外の何者でもありませんね。
南無阿弥陀仏のおいわれを誰もまともに説きませんから、S会員はコラージュ本尊を「幸福製造機」ならぬ「宿善ポイント発生装置」としか思っていないのが実情です。「この正御本尊の前でお勤めをすると、宿善ポイントがたまります」程度の。
あるいは「前川製造機」と呼ぶのが相応しいかも知れませんね。
かまたさぁ~ん
  • 2010-09-05 18:52
  • がすしつがかり
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>がすしつがかり様

仰る通り、「この正御本尊の前でお勤めをすると、宿善ポイントがたまります」と思っている会員さんは多いと思います。南無阿弥陀仏のご名号について説かず、形式ばかりを重視する親鸞会だと思います。
  • 2010-09-08 23:35
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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