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『一念多念証文』ー「おおよそ八万四千の法門は~」 の意訳

『一念多念証文』の『大経』発起序の文意を釈されたところの前半部分とその意訳です。

しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。


意訳(『一念多念文意講讃』(梯實圓著 永田文昌堂)337-338頁より)

そうであるから『大経』には、「如来、世に興出したまふ所以は、群萌を救い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」と仰せられている。この経文の意味は、「如来」というのは諸仏のことをいうのである。「所以」というのは、理由という言葉である。「世に興出したまふ」というのは、仏陀が、迷いの世間に出て来られるということである。「欲」は、こうしたいと思われることである。「拯」は、すくうということであり、「群萌」は、すべての生き物ということである。「恵」は、めぐむということである。「真実の利」というのは、阿弥陀仏の本願を指していう言葉である。
 そうであるから、あらゆる仏陀たちが、次々と世間に出て来られる理由は、一切の衆生を救いたまう阿弥陀仏の本顔力を説いて聞かせて、生きとし生けるすべての者に真実の利益を恵みあたえて救うことを本意とされているから「真実の利を恵まんと欲す」といわれているのである。そうであるから阿弥陀仏の本願を説くことを諸仏がこの世間に出てこられた本意、すなわち直説というのである。
 
 総体的にいって八万四千と呼ばれるさまざまな自力の教えは、未熟な者を育てて、浄土真宗に引き入れるための教育的手段としてしばらく説き与えられた仮の教えである。これを真宗に入るための重要な門というので要門という。しかしそれはしばらく用いるだけの権仮(かり)の法門、すなわち仮門と名づけられている。この要門とか仮門という法門が、とりもなおさず『無量寿仏観経』一部にわたって定善や散善によって往生を得ると説かれている教えがそれである。定善とは、心を一点に集中して浄土や如来を観察する修行のことで『観経』には十三種類の観法として説き示されているのがそれである。散善とは、散乱した心のままで、悪を止めて善を修行し、その功徳によって往生しょうとするもので、その行を三福行(世福、戒福、行福)として説き顕し、それを修行する人を九種類に分類して九品とするというような表し方で説かれているあらゆる自力の善行のことである。これらは皆、浄土真宗(第十八願の教え)に導くための教育的な手段として重要な意味をもつ教えであるから方便の要門といい、これを仮門ともいうのである。
 このような要門・仮門によって、未熟な衆生を育て、工夫を凝らして導き、究極的には真実の法門である、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に入れしめるように教え勧められるのであるから、あらゆる自力の善行のことを仮に設けられた方便の教えであるというのである。


今回引用した御文の前半では、諸仏の出世本懐は、弥陀の願力を説いて聞かせて、一切の衆生に真実の利益を恵み与えてすくうことであったことが述べられています。

これは、先に『法事讃』の「直為弥陀弘誓重」の「直」を直説とし、「諸仏の出世本懐は阿弥陀仏の本願の名号を用いて凡夫の往生を定めることであった」と述べたことを、『大経』の序分のお言葉から証明された段です。

『大経』序分の「真実之利を恵む」は、流通分の付属の文の「為得大利」と対応するものです。『一念多念証文』ー『大経』付属の文意で書いたように、そこには、本願の名号を信受して念仏する者は、無上の功徳が具足せしめられ、往生成仏が決定せしめられるという「大利を得る」と説かれていました。この対応から、「真実之利を恵む」とは、本願の名号を恵み与えることであることがわかります。

本願の名号による救いが諸仏の出世本懐であり、それを顕した経典が『大経』です。



では、『大経』以外の法門は、どのような位置づけになるのでしょうか?
それを述べられたのが、「おほよそ八万四千の法門は~」以下の文です。そこには、八万四千の法門が、『大経』に顕されている本願一乗に導くための権仮方便の教説であることが教えられています。そして、仏が衆生を調機誘引されるありさまが説かれているのです。


親鸞聖人は、聖道門、要門、真門を権仮方便の法門とみられていました。

要門とは、聖道門の機を浄土門に導き入れるための肝要の法門ということで、十九願の法門を開説されたものです。釈尊は『観経』で十九願意を開説されています。『観経』では、往生の行として定善・散善が説かれていますが、散善顕行縁で説かれる三福、つまり世福(世間の善行)、戒福(小乗仏教の行)、行福(大乗仏教の善行)は、
「この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」
と説かれているように、行体は聖道門の行と同じでした。よって、聖道門全体は『観経』におさまります。

また、二十願にあたる真門自力念仏も、それを行っている心は定散心であり、要門と同じ心なので要門におさめられます。

こうして権仮方便の法門は、『観経』の定散二善の法門におさまるので、
「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。」
と教えられたのです。

権仮方便という言葉の意味が分かれば、すでに本願による救いを求めている人には、要門の行信は勧められていないことが分かるのですが、親鸞会の人はそれがわからないようです。
権仮方便ということについて分かられない方は、
「飛雲 善巧方便と権仮方便の意味を教えてあげてください」を参照下さい。

親鸞会 5月15日(土)テレビ座談会のコメント欄

八万の法蔵とは、釈迦一代の教えであり、仏教であり、一切経のことです。
八万の法蔵は、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に、入れしめんが為に説かれたのですと、何度も何度も教えてくださいました。
一念多念証文意のお言葉は、
教行信証を圧縮されたお言葉と教えてくださいました。
(以下略)


とありましたので、教行信証で要門がどのように教えられているか、勧められているのかどうか、次の記事で書きたいと思います。
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