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自力の信心に凝り固まる親鸞会会員

親鸞会に所属し、外部からの情報が入らない環境に置かれている会員は、「高森先生に間違いない」信心、「親鸞会に間違いない」信心に凝り固まってしまっている傾向が見られます。

そして、その高森先生・親鸞会の指導の下、絶対に変わらない、絶対に崩れない幸福、色あせることのない幸福(絶対の幸福)を獲得するために、日々活動に邁進しています。今は持っていない、変わらない幸福、崩れない幸福、間違いのない幸福を、自分は獲得するのだと夢見ているのだと思います。自らの側に間違いないものを獲たい、変わらないものを獲たいと遠い望みに思いを馳せ、それがえられた体験が信心獲得(信心決定)だと思い込んでいるかもしれません。

今日は、以下の文章を紹介します。

『御文章概要ー蓮如教学の中心問題ー』(稲城選恵著・百華苑)624-625頁より引用。

次に信の一念の心相の上の釈をみると、無二心といわれる。この一念釈は時尅の一念の釈の当釈に対して宗義の上からの釈として宗釈といわれる。無二心の二心とは善悪正邪の分別自力の疑心を意味する。化身土巻の信罪福心といわれるが如く、罪は因の上では悪、福は因の上では善であるから善悪正邪の理性分別を場としていることは明らかである。この善悪正邪の分別心によって仏智名号法をとらえんとするのが自力疑心である。この自力疑心の否定が心相の無二心である。分別自力心が否定されるから自らの善悪正邪の理性の枠の外にあるのである。この理性の外にあるものを理性の枠の中でとらえんとするところに覚不覚の問題が生ずるのである。「アナタは神を信じていますか」という問いに対して、「ハイ信じています」ということは一般に宗教における常識である。この場合、「信じる」ということは「未現前のものに対して主体の側から確信する態度」をいい、間違いないと思いこむことである。二心とは正か邪かの二つしかない。この場合、信じるとは「正」の方向に固執する。このことは逆に外から「汝の信仰は虚偽である」と非難すると、彼はより正なることに固執し、世界中のものがすべて間違っているといっても動じない。このような信心が一般的に考えられたものであろう。しかし、浄土真宗の他力の信心は世界中の人がすべて間違っているといっても関係ないし、また間違っていないといっても私にとっては全く関係ないのである。このことは大派の香樹院師のエピソードが何よりも明らかに示されている。師が金沢で対立する安心上の論争を調べに行った時のことである。両者の主張を最後まで静かに聴き、最後に一言して云く、「褄の長い短いは着物をきているからである。裸になればいう必要がないものである。」と。この場合、裸とは勿論自らの分別自力心の否定を意味する。間違いのないのは間違いないと思っている側にあるのではなく、名号法そのものである。ここに無二心の心相の上からも信一念の釈は自らの自力心の介入する余地の存しないことが明らかに知られる。

※信の一念の心相上の釈とは、「信文類」の
「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
時尅の一念の釈とは、同じく、
それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
です。

上の文章は、名号法を自らの善悪正邪の分別心によってとらえる立場(自力疑心)と、名号法そのものを体とする浄土真宗の他力の信心との相違について教えられたものですが、文中に「一般に宗教における常識」として書かれている部分が親鸞会会員の信心そのものだと思います。

「アナタは高森先生を信じていますか」と現役会員さんに問えば、「ハイ、高森先生に間違いないと信じています」と答えることでしょう。これは、「高森先生に間違いない」と思いこむ姿です。そのような会員さんに、「高森先生の説いていることは間違いだらけです」というと、顔色を変えて「高森先生に間違いがあるはずがありません」と反発し、ますます「高森先生に間違いない」と固執することでしょう。

まさに、「高森先生に間違いない」という自力の信心に凝り固まっている親鸞会会員ではありませんか?

結局のところ、多くの親鸞会の会員さんは、「親鸞聖人の教え」や「阿弥陀仏の本願」に向いているのではなく、「高森先生」に向いているだけではありませんか?

親鸞会会員さんの信仰とは、高森先生に対する信仰であって、親鸞聖人の教えに対するものではないと最近感じるようになりました。
親鸞聖人がどのようなことを仰っていても、優先されるのは高森先生のご教導ならば、もはやそれは浄土真宗ではありません。高森教を信仰しているのが親鸞会の会員さんということです。


例えば、浄土真宗、親鸞聖人の教えの根基は三願転入であるということなど、親鸞聖人はどこにも教えられていません。蓮如上人もどこにも教えられていません。「親鸞聖人の教えの根基は三願転入である」という根拠を示されたことがあるのかどうか、現役会員の皆様は冷静に振り返ってみて下さい。

親鸞聖人が、

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。(信文類)

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。(化身土文類)

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。(末灯鈔)


と教えられているように、浄土真宗とは、阿弥陀仏の第十八願の法門です。「教文類」の巻頭に、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

と説かれているように、その第十八願の法門を、二回向四法の教義体系で教えられたのが親鸞聖人です。

「一階から二階に上がるのには階段が必要」というようなたとえ話を用いて、十八願に入るのには十九願・二十願の道程を通らなければならないと、既に親鸞聖人の教え(十八願)を求める人に説くのは、親鸞聖人の教え(本願力回向の法義)の破壊以外の何者でもありません。


「高森先生に間違いない」信心、「親鸞会に間違いない」信心という凝り固まった自力の信心を破り捨てて、本当の親鸞聖人の教えを聞いて頂きたいと念ずるばかりです。

『歎異抄』後序の

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。

のお言葉について、「よろづのこと、みなもって」とは、「一つも例外がない」ということだと高森会長は話をします。「みんな自分のたよりにしているもの・あて力にしているものは、これだけは間違いないと信じきっているから、親鸞聖人は繰り返し、例外はないのだと教えられている」とも話をします。「一つも例外はない」のですから、会員さんには、高森会長も親鸞会も「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」の中に入っているのだということをよくよく知って頂きたいと思います。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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