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出拠を知らないから教えの間違いに気が付かないー「平生業成」を例に

親鸞会の教えの説き方の問題点として、そのお言葉がどこに説かれているのかという出拠を示さずに説明をするというものがあります。これによって、前後の文脈を無視した解釈がなされていたり、間違った解説がなされていても、聞いているものがその間違いに気が付く可能性は非常に低くなってしまうという弊害があります。それによって、親鸞会の独自教義を、親鸞聖人の本当の教えだと誤解してしまっているように見受けられます。

今回は、親鸞会でよく話をされる「平生業成」を例にとって、親鸞会の教義について検証したいと思います。

「平生業成」という言葉そのものは、親鸞聖人の書かれたものの上には見られません。覚如上人、存覚上人の上で示され、蓮如上人の上でしばしば見られます。例として、2つのお言葉を示します。

親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。(浄土真要鈔)

そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をも、さらに存知せず。くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。(御文章1帖目4通)


いずれのお言葉でも、親鸞聖人の一流は「平生業成」であり、それに対して「(臨終)来迎」が挙げられています。

つまり、「平生業成」の「平生」とは「臨終」に対する言葉であるということです。
『「平生」とは「臨終」ではない、生きている現在』と説明すべきなのですが、親鸞会では『「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在』と説明しています。これは不適当な説明だということです。

漢字4字でいうと、「平生業成」は、「臨終業成」に対する言葉なのです。

「業成」とは、親鸞会の『教学聖典』にあるように、業事成弁という意味です。往生の業因が行者の上に成就するということです。

(浄土に往生するのは死後ですから、その業事成弁(業因成就)が平生なのか臨終なのかは問題になります。しかし、浄土往生が死後か現在かは問題になりません。そういう意味でも『「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在』という親鸞会の説明はおかしいことが分かります。)

臨終来迎をえることで往生が定まるという「臨終業成」に対し、平生に南無阿弥陀仏を聞信した一念に往生の業因が定まるという「平生業成」が親鸞聖人の教えです。

ここで、阿弥陀仏が衆生が浄土に往生する因を誓われた十八願、十九願、二十願についてみると、
・平生業成 ー 十八願
・臨終業成 ー 十九願・二十願
となります。十九願は、願文に明らかに臨終来迎が誓われています。二十願も、その意を開説した『阿弥陀経』に臨終来迎が説かれていることから、臨終を期し来迎を待って往生が定まることが分かります。

以上、述べてきたことが、親鸞会でよく話される「体失不体失往生の諍論」の法然聖人の仰せの中に教えられています。親鸞会では、『口伝鈔』のお言葉を挙げて説明されることは、ほとんどありませんので会員の方では知らない人もあるかもしれません。

念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり。

・念仏往生(十八願)は、仏の本願であり、臨終の善悪を沙汰せず、他力より信心が定まる平生のとき、往生の業事が成弁する。
・諸行往生(十九願)は、本願ではない。十九願の人は臨終来迎を待たなければ、化土にも往生できない。
と教えられています。
体失不体失往生の諍論とは、往生が定まるのが、平生か臨終かの争いであり、それぞれの根拠は十八願、十九願にあるのです。十八願の「若不生者」の「生まれる」が、死後か現在かの争いではありません。
そして、念仏往生(十八願)は本願だから十方衆生が救われるのであり、諸行往生(十九願)は非本願だから定善・散善ができる人に限ると仰って、十八願の機の不体失往生と十九願の機の体失往生とでは、上下優劣のへだたりがはなはだしいと結ばれています。

臨終来迎を誓われている十九願の修諸功徳の善(定散二善)を、平生業成の十八願を求めている人に勧めているのが、親鸞会でいう「三願転入の教え」です。様々なブログで指摘されているように、いろいろな点から破綻しているのが親鸞会の「三願転入の教え」ですが、「平生業成」の意味を見ていってもやはり破綻していることが分かります。


今回の記事をまとめます。

・「平生業成」とは、「臨終業成」に対するものであることが親鸞会では教えられていません。

それによって、

・「平生業成」の義により、親鸞聖人の教えは、平生に本願を聞信する一念に往生が定まる十八願の法門であることが示され、「臨終業成」の十九願の法門でも二十願の法門でもないことが明らかになるですが、親鸞会会員はそれに気が付かなくなってしまっています。

その結果、

・会員さんは、親鸞会流の「三願転入の教え」に疑問をもつこともありません。「三願転入の教え」が破綻していることにも気が付きません。



最後に、現役会員さんには、以上を踏まえて、親鸞聖人の『末灯鈔』のお言葉を拝読して頂きたいと思います。

 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
 正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。
 また正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散心の行人の正念あるべし。この二つの正念は他力のなかの自力の正念なり。定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。
(中略)
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。


どんなお言葉が解説されたときでも、真宗聖典で出拠を探し、その前後を含めて確認することをお勧めします。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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