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親鸞会教義から抜け落ちていること

あるブログを見ていたら、英訳の「教行信証」について書かれていました。

その中の

例えば、英語では必ず主語が必要ですので、他力の話をする時、「誰が」が明確なんです。もちろん、他力に於いてはすべて「Amida-Buddha]が主語です。
そしてそのハタラキは「~ing」現在進行形で表現されます。今、現在も浄土で真実の法を説かれているからです。
それを受け取るのは「私」ですが、これを「I(Me)」ではなくて、「Inner-being」と表現するんですね。私の存在そのものの核(命の根源)というような表現でしょうか?
「なるほど」と思いませんか?

なるほど、、いま現在はたらいて下さっている、わたしの核に、ですね!


という箇所に「なるほど、浄土真宗をよく表している」と思いました。

内容を簡潔にまとめると、

(1)他力においては、すべて阿弥陀仏が主語。
(2)他力は、いま現在はたらいて下さっている、私に。


となります。そして、これらが、親鸞会で教えられていることでは抜け落ちているなと感じました。


親鸞聖人は『行文類』他力釈で

他力といふは如来の本願力なり。

と教えられていますが、この「他」とは衆生(私)のことです。

このことは、他力釈に『浄土論註』を引かれて、

しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。

と教えられていることから分かります。これは、「覈求其本釈」と言われるものです。現代語訳は、

そこでいま、衆生が速やかにさとりを得ることの根本を明らかにするなら、阿弥陀仏をそのもっともすぐれたはたらきとするのである。他利と利他とについては、何を語ろうとするかによって違いがある。仏の方からいうなら、他すなわち衆生を利益するのであるから、利他というのがよい。衆生の方からいうなら、他すなわち仏が利益するのであるから、他利というのがよい。いまは仏のはたらきを語ろうとするのであるから利他というのである。この意味をよく知るがよい。

となります。

少し解説をします。

まず、「他利と利他と、談ずるに左右あり」の「利他」とは、「他を利す」と読み、「自利他(自が他を利す)」の「自」が略されたものです。これは、自である阿弥陀仏が他である衆生を利益するという意味で、阿弥陀仏の救済活動を仏の側から表した文章です。すなわち、救済のする仏が主体であり、救われる「我」は客体となります。それを「もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし」といわれています。

次に、「他利」ですが、「他が利す」と読み、「他利自(他が自を利す)」の「自」が略されたものです。これは、他である阿弥陀仏が自である衆生を利益するという意味で、私の側からみた文章になります。この場合は、救済される「我」が主で、救済する仏が客体です。ですから、「衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし」といわれる訳です。

「いままさに仏力を談ぜんとす」と、今は仏のはたらき(仏力・本願力)を語ろうとするので、「このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのです。

阿弥陀仏の強力な本願力を表すのには、仏の救済意思を表す「利他」がふさわしいということです。

他力とは、「他の力」という意味ではなくて、如来の「利他力」を表す言葉として用いられていた訳です。つまり、「他力」とは、「利他力」の「利」が略されたもので、阿弥陀仏が衆生(私)を利益される力のことです。

親鸞聖人は、しばしば他力のことを「利他」といいかえられています。行・信・証から一つずつ挙げましょう。
・行といふは、すなはち利他円満の大行なり。(浄土文類聚鈔)
・利他深広の信楽(信文類)
・利他円満の妙位(証文類)

真宗の行、信、証は、すべて阿弥陀仏から与えられるものなのです。その阿弥陀仏が衆生(私を)救済するはたらき・力を、「他力」=「利他」と表されている訳です。

こうして、『証文類』総結の文には、

宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。

(現代語訳)
曇鸞大師は、往相も還相もみな阿弥陀仏の大いなる慈悲による回向であることをあらわして、他利と利他の違いを通して他力の深い教えを詳しく説き広めてくださった。

と、曇鸞大師の功績が讃えられています。

浄土真宗で説かれているのは、阿弥陀仏を主体、私を客体とする、阿弥陀仏の救済活動です。すべては阿弥陀仏が私に与えて下さるものであり、私の側の造作は何ら要しません。

私が阿弥陀仏に向かっていく教えではないのです。
黒板に「縦の線・横の線」を書いて、「この一念の決勝点まで進め!」という教えは、浄土真宗ではありません。
私が、廃悪修善を実践して、後生に驚きが立ち、「一つの善もできない自分でした」というところに向かって進んでいく教えも、親鸞聖人の教えではありません。
私が、聴聞・勤行・六度万行に励んで、「信仰」というものを進めて、その先の救いを求めていく教えも、真宗ではありません。

私が、本願力を計らうのではありません。
阿弥陀仏の本願力が、私をはからうのです。

すべて本願力の回向によって救われる教えが浄土真宗です。

その本願力、他力、仏力は現在はたらいているのです。

私が何かをして進んでいった先にはたらいているものではありません。
いま、ここにいる私の上にはたらいているのです。

ゆえに、その願力を計らいなく聞き受けたとき、報土に往生すべき真因が決定するのであります。

「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。(行文類)

ここに、平生業成が成立するのです。


(参考)
WikiArcー他力
「用管窺天記」今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)
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