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>真剣に聞かにゃならん。だけど、間に合いませんよ。真剣に聞いた者、間に合わなんだと知らされる。関係ない。ゼロです。

無茶苦茶と申しますか、自己矛盾も甚だしい話ですよね。
結局のところ会長は「真剣に聞くと、真剣さが役に立たないと知らされる。真剣に聞かなければ知らされない」
と主張しているわけで、
思い切り「聞法者の真剣さの有無」と「獲信」を関連付けてますね。
  • 2010-10-04 19:27
  • Rudel
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[C120]

Rudel様

「真剣に聞いたことが間に合って助かるのではない。しかし、真剣に聞かないと、真剣に聞かないものには、間に合うか間に合わないかは知らされない。」
「善が間に合って助かるのではない。しかし、実地に善をやってみなければ、間に合うかどうかは知らされない。」
などなど、親鸞会教義は完全に破綻しているのですが、中にいる人は「矛盾か、仏意は」と教えられているので、なかなかその間違いに気が付かないようです。これからも、教義のおかしさに気が付くきっかけになるような記事を書いていきたいと思います。
  • 2010-10-05 01:03
  • いつもの元会員
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真剣に聞いたことは弥陀の救いと無関係と話す高森先生ー『本願寺なぜ答えぬ』の破綻

『本願寺なぜ答えぬ』78頁に以下の記述があります。

今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。
獲信と、よい関係にある、修善をすすめる親鸞会を、非難する本願寺は、間違いにならないか。


これについて、過去のアニメ解説で、高森会長自身が、自分が真剣に聞いたことは、獲信と無関係であり、それを喜ぶことはないという回答をしたことがあります。

平成17年9月23日、4回目のアニメ解説で、「真剣に聞くことと早く他力の信心をうることの間には、関係があるとしか思えないがどうなのか?」という趣旨の質問(もとの質問文が分かりにくいので改変しました)に対して、高森会長は以下のように答えていました。


真剣に聞くとはやく他力の信心がいただけるとすると関係あるんではないか?
もし、そういう人が他力の信心獲得したら、「真剣に聞いてよかった、真剣に聞いたことが間に合った」と思うということ。もし、関係があるなら思う。思って当然。

ところがそうは思わない。
真剣に聞いたことは間に合わなかった。私が、頭が良かったから悪かったから、学問あったから無学だから、こんなことは一切関係なかったと知らされるのがこのとき(注:信の一念のこと)、ハッキリするのがこのとき。
こんなことは一切、弥陀の救いにあうには関係なかったと知らされるのがこのとき。救われた後もその心はずっと続く。

ですから、関係は全くありません。


※このあとは、「真剣にきかないと真剣に聞いたこと間に合わないと知らされない」、「善い行いを一生懸命やって、雑行が雑行と知らされ、一切の諸善万行間に合わなんだと雑行が廃る」という親鸞会教義が繰り返し話されました。そして、最後に、、、

ですから、今の質問、真剣に聞かにゃならん。だけど、間に合いませんよ。真剣に聞いた者、間に合わなんだと知らされる。
関係ない。ゼロです。


(聴聞録がある人は確認してみて下さい。)


一切、弥陀の救いに関係なかったと知らされるのですから、「自己の修する善」も無関係です。自己の修する善が獲信とよい関係だったと知らされることはないということです。当然、今年、獲信した人が、昨年行った善を振り返って、宿善と、喜ぶことはありません。無関係なのですから。

つまり、上のアニメ解説の内容は『本願寺なぜ答えぬ』の七つの質問の中の第一問が成り立たないことを高森会長自らが話している訳です。「今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。」ということはないのです。

真剣に聞いたことが間に合わないということを話しているだけなんだと思われる方もあるかもしれませんが、「真剣に聞いてよかった」と思うことがないとも話しています。同じように、弥陀の救いに関係づけて「善を修めてよかった」と思うこともないのです。


繰り返しこのブログで書いていることですが、一切の私の行為と弥陀の救いは無関係です。獲信と無関係な修善を、獲信と関係づけて説いているので、親鸞会は間違っていると批判しているのです。


この記事のアニメ解説の内容でいうと、親鸞会教義の問題は、
・真剣に聞かないと、真剣に聞いたことが間に合わないと知らされない
・善い行いを一生懸命やって、雑行が雑行と知らされ、雑行が廃る
というところにあります。ここが親鸞聖人の教えにない独自の教義です。

救いと無関係なことは、どれだけ実行しても無関係です。ゼロはいくら足してもゼロです。仏意に矛盾があるのではなく、高森会長の説き方が矛盾しているだけです。会員の皆さんは、深い御心と思考停止しないで下さい。

自分が善を修め、その延長上に雑行(自力の心)が廃るということがあるのではありません。南無阿弥陀仏の名号のはたらきによって、雑行(自力の心)が廃るのです。

「まかせよ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」の仰せを頂くばかりです。自ら聞いて間違いなくなるのではなく、間違いない法(南無阿弥陀仏)を聞くのです。そこに自力の計らいは否定され、残るのは間違いない法のみです。信心といっても南無阿弥陀仏の他には何もありません。

全て阿弥陀仏のお育て、おはたらきであると喜ぶばかりです。
「遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」です。
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>真剣に聞かにゃならん。だけど、間に合いませんよ。真剣に聞いた者、間に合わなんだと知らされる。関係ない。ゼロです。

無茶苦茶と申しますか、自己矛盾も甚だしい話ですよね。
結局のところ会長は「真剣に聞くと、真剣さが役に立たないと知らされる。真剣に聞かなければ知らされない」
と主張しているわけで、
思い切り「聞法者の真剣さの有無」と「獲信」を関連付けてますね。
  • 2010-10-04 19:27
  • Rudel
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Rudel様

「真剣に聞いたことが間に合って助かるのではない。しかし、真剣に聞かないと、真剣に聞かないものには、間に合うか間に合わないかは知らされない。」
「善が間に合って助かるのではない。しかし、実地に善をやってみなければ、間に合うかどうかは知らされない。」
などなど、親鸞会教義は完全に破綻しているのですが、中にいる人は「矛盾か、仏意は」と教えられているので、なかなかその間違いに気が付かないようです。これからも、教義のおかしさに気が付くきっかけになるような記事を書いていきたいと思います。
  • 2010-10-05 01:03
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