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浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介 『往生』と日常生活は別問題
へのリンクが、httpでなくttpになっています。

[C122]

修正しました。

ご指摘、有り難うございました。
  • 2010-10-08 07:56
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[C123]

S会が このように解説しなければならないのは いくつかの理由が 有ると思われます。「ひらく」のP37最後の「ゆえに弥陀の本願に救い摂られたならば 、一切の善は無用となる」と 解説しています。このように 解説しなければ 会長の教義は 成り立ちません。 
救われるのに 善はいらないと 言えないからです。ですが、善で救われるとも 言えません。そこで 「往生と日常は別」と 解釈します。が、しかしです。しかし なのです。「宿善を厚くせよ」と 言わねば ならないから 信前の善 を否定する訳にもいかず。で、ヘンテコ教義が 出来上がっています。 
9月26日の 座談会で 「ひらく」の 
「しかれば 本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」の 解説にたいしての質問の 回答です。 
  • 2010-10-08 21:59
  • 柳に風
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[C124]

柳に風様

幾重にもおかしな解釈がくみ合わさっているのですが、そのヘンテコなことを聞いている人が全く気が付かないのが残念です。

情報有り難うございました
  • 2010-10-11 00:54
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『往生』と日常生活は別問題というなら・・・

浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介 『往生』と日常生活は別問題より引用。

阿弥陀仏の救いは、私たちの幾億兆年続いてきた魂の流転を断ち切るという救いです。

阿弥陀仏に救われたことを、後生の一大事の解決と言います。

阿弥陀仏に救われれば、いつ死んでも極楽往生間違いなし、後生の一大事の解決という究極の目的が達成されるのですから、「往生のために善をしようという心」は微塵もなくなる、ということを歎異抄第1章には「他の善も要にあらず」(他の善は必要ない)と言われているのです。

喩えていえば、難病が特効薬で完治した人は、他に薬を求めようという心がないのと同じです。他の薬に用事があるのは、全快していないからでしょう。

既に救い摂られた人に、救われるに必要な善などあるはずがありません。善が欲しいのは、救われていない証です。

もちろん、善いことをしなければ善果はかえってきませんが、これは往生とは別の話です。

阿弥陀仏に救われても、努力しなければこの世のことでは成功しません。

『往生』の問題と日常生活の問題をゴッチャに考えているところに、親鸞聖人の教えを誤解し、ねじ曲げてしまう原因があるのです☆



最後の一文がよいですね。

高森会長が『往生』の問題と日常生活の問題をゴッチャに説いているので、親鸞会会員さんは親鸞聖人の教えを誤解してしまっているのです。例えば、以下のような説き方がその例です。

高森顕徹先生の独言 (67) 雑行より引用。

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。
 修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。
 原因は厳しく結果を開く。
 善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。


すでに『21世紀の浄土真宗を考える会』
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-252.html
で指摘済みの通り、上の文章は「往生の問題」と「日常生活の問題」を交互に説いて分かりにくい文章になっています。

「往生の問題」を赤、「日常生活の問題」を青で示すと、

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決する
が、暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。

 修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。
 原因は厳しく結果を開く。
 善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。

となります。

阿弥陀仏の浄土に往生するのは弥陀の名号の独り働きだから、浄土往生のために諸善や六度万行をやる必要がないのです。もちろん、浄土往生の因である信心を獲得するのに、善をしなければならないということもありません。

・獲信の因縁として善を修せよ。
・修善と獲信はよい関係にある。
・善をしなければ信仰は進みませんよ。
これらは、みな間違いです。
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浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介 『往生』と日常生活は別問題
へのリンクが、httpでなくttpになっています。

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修正しました。

ご指摘、有り難うございました。
  • 2010-10-08 07:56
  • いつもの元会員
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S会が このように解説しなければならないのは いくつかの理由が 有ると思われます。「ひらく」のP37最後の「ゆえに弥陀の本願に救い摂られたならば 、一切の善は無用となる」と 解説しています。このように 解説しなければ 会長の教義は 成り立ちません。 
救われるのに 善はいらないと 言えないからです。ですが、善で救われるとも 言えません。そこで 「往生と日常は別」と 解釈します。が、しかしです。しかし なのです。「宿善を厚くせよ」と 言わねば ならないから 信前の善 を否定する訳にもいかず。で、ヘンテコ教義が 出来上がっています。 
9月26日の 座談会で 「ひらく」の 
「しかれば 本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」の 解説にたいしての質問の 回答です。 
  • 2010-10-08 21:59
  • 柳に風
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柳に風様

幾重にもおかしな解釈がくみ合わさっているのですが、そのヘンテコなことを聞いている人が全く気が付かないのが残念です。

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  • 2010-10-11 00:54
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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