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【再掲】『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会

昨日の記事では、親鸞会講師部員が開催している講座について取り上げました。

親鸞会の会員さんや親鸞会関係の行事に参加している未会員さんの中には、仏教については、親鸞会関係の本しか読んだことがないという人もいると思います。そこで、親鸞会の教えしか知らない人でも、読んでもあまり違和感のない仏教書を一つ紹介したいと思います。約4年前の記事でも取り上げましたが、本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』です。

親鸞会講師部員が開催している講座に参加している人や現役親鸞会会員の方に、『なぜ生きる』や親鸞会発行の書籍以外の仏教書を読むきっかけにしてもらいたいと思い、以下に過去の記事の再掲します。この記事を通して、「人生の目的、なぜ生きるを教えられたのが親鸞聖人」と説く人は、親鸞会以外にもいることを知って頂きたいと思います。

(以下、2011年5月3日の記事の再掲)

親鸞会批判の真実の中に掲載されている親鸞会と本願寺10の相違点の1番に、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
本願寺 いない
親鸞会 いる


とあります。果たして、これは本当でしょうか?
本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』を見てみましょう。


生死出づべき道 私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です。

何のために生まれて 何のために生きているのか

 何のために 生まれて 何をして 生きるのか
 答えられないなんて そんなのは いやだ! (作詞やなせたかし 作曲三木たかし)

 これは、「アンパンマンのマーチ」の一番の歌詞です。アンパンマンというのは、顔がアンパンのアニメのキャラクターで、小さな子ども達には大人気です。そんな子ども向けのアニメの主題歌の中で、こんな難しいことが歌われているのです。
 あなたは、「何のために生まれて、何をして生きるのか」答えられますか? これは、たいへん難しい問題で、そう簡単に答えられる問いではありません。
 ある人は、この問いに対して、「その答えを探すために生きるのです。」と言われました。確かにその通りでしょう。しかし、親鸞聖人は、この問いに一つの答えを出されました。
(106-107頁より引用)


上記のように、『私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です』とハッキリ書かれています。これだけでも、親鸞会の主張する、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

本願寺 いない


が事実と異なることが分かります。

では、「生きる意味と方向」について、この本ではどのように書かれているのでしょうか?
次にその部分を引用します。

生きる意味と方向
 浄土真宗の救いとは、金魚すくいみたいに、ひょいとすくってもらって、いい世界に連れて行ってもらうようなものではありません。また、病気を治してもらったり、さまざまな自己の願いが叶ったりすることでもありません。
 浄土真宗の救いとは、生きる意味と方向が定まることです。自己中心の心から離れられず、迷いの人生を生きている私に、智慧と慈悲の世界が与えられることによって、人生のあらゆることに尊い意味を見いだすことができるのです。そして、浄土という真実の世界に向かって生きることが、本当の人間としての生きる道であると、生きる方向が定まるのです。
 このように、私中心の生き方から仏中心の生き方へと転換され、念仏という生きる依りどころが定まった時、どんな苦難をも乗り超える智慧と力が与えられるのです。

往生浄土
 ただし、浄土真宗の究極的な救いは、この世のいのちが終わると同時に、浄土に往生し成仏する(さとりを開く)ことです。「往生」とは、「困ること、行き詰まること」ではなく、文字通り、「往き生まれる」ことです。「浄土」とは、「煩悩の汚れの無い清らかな世界・さとりの世界」のことです。つまり、「往生浄土」とは「浄土に往き生まれる」ことで、それは行き詰まることではなく、さとりという新しい世界が開けてくることなのです。

現生正定聚
 しかし、このことは、決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われるのです。それを「現生正定聚」という言葉で表わしています。「現生」とは、この世、「正定聚」とは、正しく仏になることが定まったなかまという意味です。
 つまり、信心をいただいた時、念仏という生きる依りどころが定まり、浄土という真実の世界に導かれながら、浄土という真実の世界に向かって生きるという生き方が与えられるのです。それを救いと言うのです。
(194-195頁より引用)


いかがでしょうか?

親鸞会在籍時、「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏と死後の救いばかりを説いていて、現在の救いを説かない」と聞いたことがあります。実際に、親鸞会と本願寺10の相違点の5番目、6番目に

助かるのはいつか
本願寺 死なねば助からぬ
親鸞会 生きている時に助かる

救われたらどうなるのか
本願寺 この世で救われたということは、ありえない
親鸞会 絶対の幸福になる


とあります。ところが、上の引用部分では、「決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」と「現生正定聚」について書かれています。つまり、親鸞会のこれらの主張も、本願寺の主張を歪曲したものであることが分かります。

10の相違点の7番目も酷い歪曲です。

本願寺 念仏さえ称えておればいい
親鸞会 真実の信心ただ一つで助かる


上の引用部分に「信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」とありました。『高校生からの仏教入門』では、別の部分でも「信心正因称名報恩」について教えられています。

本願寺には、親鸞会とは比べ物にならないくらい多くの布教使が在籍しています。その中には親鸞会が「本願寺は●●だ」と言っているようなことを説く人もあるのかもしれませんが、親鸞聖人が教えられたことを正しく説く人もいることは、本を手に取って読んでみたり、法話を聞いてみたりすれば分かることです。それらをひとまとめにして、「本願寺は●●」とレッテルを貼っているのは、正しく教えを説く人がいることを会員さんに知らせないための手段だと感じます。他で教えを聞くことは許さないという縄張り根性の表れでしょう。

自分自身のことを振り返ってみると、親鸞会から一方的に「本願寺は●●」というプロパガンダを聞かされて、「本願寺とは何てひどいことを教えているところなのだろう」と思い込まされていました。しかし、事実は違いました。自分で書店に行き、本願寺出版の書籍や本願寺派に属する布教使の書いた本を読んでみると、親鸞聖人の教えをそのまま伝えていることが分かりました。一方、親鸞会は、親鸞聖人が書かれたものを断章し、自分に都合良く解釈しているということもよく分かりました。この親鸞会教義の誤りについては、当ブログはじめ、多くのブログが指摘していることです


さて、話を「人生の目的」というところに戻しましょう。親鸞会は、親鸞聖人の明らかにされた人生の目的を説いていると主張していますが、親鸞会の人生の目的の説き方はおかしいです。「ここが信仰の決勝点、ここが卒業、完成」と、未来に向かって、これから一生涯かけて求めなければならないものとして教えます。これが、親鸞聖人の教えの一枚看板と自分たちがいっている「平生業成」に、実は真っ向から反しているのです。「平生」とは「いま」のことと言っていながら、「ここまで進め」では、達成するのはどうしても未来です。

「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」とつねに喚び続けている名号をそのまま疑いなく聞き受けることが信心です。そのとき、往生成仏が定まります。私が求めるよりも先に与えられている名号願力という大前提のもとに「平生業成」が成り立つのです。

「人生の目的」という言葉を使うならば、これから未来に向かって使うのではなく、生まれたときから現在只今までのことなのです。
「多生の目的」という言葉も同様です。これから未来に向かって、多生かかって求めていくという意味に使うのではありません。生死を繰り返してきた果てしない過去から今日までのことです。

南無阿弥陀仏をそのまま聞き受けたとき、生きる目的も知らず死に行く先も知らなかった人生が、浄土に向かって生きる人生であると生きる方角が定まるのです。南無阿弥陀仏を聞くのは、未来のことでもなく、過去のことでもなく、現在只今のことです。「生きる意味と方向」が定まるのは、現在只今であって、未来に向かってその達成を求めるのではないのです。つねに喚びかけ続けられている本願の仰せを、「いま」、聞くか聞かないかだけです。

親鸞会は人生の目的を説いていると言っていても、そこで説かれている目的を達成することは不可能でしょう。信心獲得が人生の目的といいながら、信心の理解がまるで間違っているというのが理由の一つ。他力回向の親鸞聖人の教えが、自力の教えになってしまっているのが理由の二つ目。私の側のことばかりが説かれ、助けて下さる阿弥陀仏のことが完全に抜けてしまっている話を聞かされているということが理由の三点目です。

親鸞会の会員さんが勧められていることは、いつまでたっても決勝点に辿り着くことのない活動だけであるということに気が付いてもらいたいです。死ぬまで求道の「光に向かって進む教え」が親鸞会教義なのです。いつまでたっても光に辿り着くことはありません。

平生業成の教えが説かれているか?
本願寺(全ての布教使がどうかは分からないが) いる
親鸞会 いない

というのが実態ではないでしょうか?(親鸞会でも言葉だけなら説かれていますが、「実態は」ということです)

今日紹介した『高校生からの仏教入門』は、当ブログでこれまで引用してきた本に比べて、親鸞会の会員さんにも読みやすい本だと感じますので、関心をもたれた方は読んでみるのがよいと思います。

※なお、今回、この記事を再掲載したのは、掲載から4年程経過した今でも、同記事の拍手ボタンを何度も押して下された方がいたというのも一つの理由です。拍手ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

「ゼロからわかる仏教教室・勉強会」「一からわかる仏教講座」は親鸞会関係の講座です

前々回の記事では、各地の親鸞会関係のホームページで、行事日程が掲載されていないことについて書きました。
その後、ネット上を調べていたところ、親鸞会講師部員が、「ゼロからわかる仏教教室・勉強会」、「一からわかる仏教講座」といった名称で、講座を開催し、その日程をサイトに掲載していることが分かりました。

ゼロからわかる仏教教室・勉強会 仙台
http://japan-buddhism.com/tohoku/

ゼロからわかる仏教教室・勉強会 新潟
http://nigata-buddhism.info/

ゼロからわかる仏教教室・勉強会 札幌
http://japan-buddhism.com/sapporo/

一からわかる仏教講座 東京
http://japan-buddhism.com/

一からわかる仏教講座 横浜
http://japan-buddhism.com/yokohama/


上のサイト内の講師紹介では、浄土真宗親鸞会の講師であることが書かれています(東京以外のサイト)。過去、名前を出さない勧誘で、種々に批判を浴びたので、講師紹介の欄に「浄土真宗親鸞会」という名称を示したのでしょうが、その他の箇所では「浄土真宗親鸞会」という名称は書かれていません。

また、上の仙台のサイトでは、
レギュラー講座に参加されている対象に、更にメンバー登録をされた方は、 テキスト3冊(御文章、正信偈、解説冊子) 念珠、仏教が学べる小冊子(月1冊)、マンガ(月1冊)、新聞(月2部)がもらえ、 ご自宅でも、しっかりと学べます。
と書かれています。何も知らない人のために言っておきますと、上のもらえるものから見て、この「メンバーを登録する」とは、つまり「親鸞会に入会する」という意味です。

寺や大学、自己啓発セミナーに行って聞くという方法もありますが、講座が行われていなかったり、高額な受講料がかかったり、それでいて、聞きたい話は聞けなかったという事がよくあります。
とも書かれていますが、私が会に在籍していた当時(約5年前)、入会金が5万円(学生は2万円)でした。高額な入会金が必要なことも知っておいて頂きたいと思います。そして、毎月、富山で行われる高森会長の法話、座談会等では、お布施が必要です(約5年前で、通常の法話だと5千円、降誕会、報恩講といった大きな行事の場合は、1日数万円。)。

親鸞会のことを知らずに、、「ゼロからわかる仏教教室・勉強会」、「一からわかる仏教講座」に参加している方は、まず、親鸞会とは、どんな団体かを知って頂きたいと思います。当ブログのリンク欄のサイトを熟読することをお勧めしますが、リンクしているサイトは多いですので、まず、
親鸞会組織の問題点について、
さよなら親鸞会
を読んで知ってください。
教義面については、
浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?
が問答形式で読みやすいと思います。
少し難しい内容もありますが、
親鸞会教義の誤り
親鸞会邪義を破る
は、内容がまとまっています。

一度きりの人生、絶対に後悔したくない方は、いろいろな方面から情報を集めた上で、浄土真宗親鸞会が、本当に信頼に足る団体であるかどうかを判断してください。

※2015年4月24日記事を一部修正しました。

「仏教の真髄である浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、善の勧めがないはずがない」という親鸞会の詭弁

仏教の山全体が善のすすめなのだから、その仏教の真髄を教えられた親鸞聖人の教えに善の勧めがないはずがない」という親鸞会の主張に、納得してしまう会員さんがいるようです。

参考までに、上記の主張が書かれているサイトを2つほど例示しておきます。

(1)仏教の根本教理は、因果の道理。善因善果、悪因悪果、自因自果の三世十方を貫く真理から導き出される結論は、廃悪修善の教えである。その仏教の真髄である浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、善の勧めがないはずがない。
「善を勧めぬ浄土真宗」の凋落と親鸞会より)


(2)熊「これだ。そういう聞き損ないが困るんだよ。善い種まけば善い結果。悪い種まけば悪い結果、それは仏教の根幹、因果の鉄則だ。親鸞さまの教えに、善が勧められていないとすりゃあ外道の教えになっちまう。それでもいいのか、このおたんこなす!」
与太郎「そりゃよくないよ。じゃあ善の勧めはあるのかい」
熊「あるのかいだとォ?あるに決まってるじゃねえか、親鸞さまの教えってのは仏教の真髄だい」
演目「善の勧め」より)


このような親鸞会の主張に納得してしまうのは、そもそも仏教の目的がずれてしまっていることが原因です。

そもそも仏教の目的は「生死を離れて、さとりを開くこと」です。

その生死出離の道に、様々な教えがあるわけで、その中には、善を修めて、この世でさとりを開くことを説く聖道門の教えもあれば、浄土の往生して浄土でさとりを開くことを説く浄土門の教えもあります。その浄土門の教えの中にも、諸善(雑行)による往生を説く教えもあれば、念仏による往生を説く教えもあります。

では、親鸞聖人が教え勧めていかれた、生死を離れる道はどのような道であったのでしょうか?
端的に示されているのは、『行文類』に引かれている『選択本願念仏集』のお言葉です。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。

速やかに生死を離れようと思うのならば、聖道門をさしおき、雑行をなげうち、助業をかたわらにして、専ら正定業である念仏を称えよというお勧めです。そして、称名念仏するものは必ず往生を得る、阿弥陀仏の本願によるからだと仰せです。

親鸞聖人は、速やかに生死を離れようと思うならば、善を修めることによって今生でさとりを開くことを説く聖道門の教えも、諸善(雑行)によって往生を得ることを説く浄土門の仮の教えも捨てよとしか仰っていません。つまり、仏教の山全体を見られて、善のすすめを説いている法門は勧めておられず、称名念仏によって往生を得る法門のみを勧められているのです。

ちなみに、上で紹介した演目「善の勧め」の中には、

熊「しつこいね、お前って人は。それとも何か?ご法談のあと、こっそり、『善の勧め、ありゃあ遠回りだよ』とか何とか言って人を引っ張ってく奴ってのはお前かい?」
与太郎「人聞きが悪いや。何だよそれ、遠回りって」
熊「『獲信にはコツがある。近道がある』って言う奴がいるらしい。お聖教に書かれた以上のコツや近道があってたまるかってんだ」
与太郎「で、そのコツ野郎が『善の勧めは要らねえ』って言うのかい?」
熊「ああ。お釈迦さまから七高僧、親鸞さまや蓮如さまに一貫した教えを無視して一体おめえ何様のつもりでえ」
与太郎「だからおいらじゃないって。勘違いしないでよ」
熊「何だとォ?このナス。そのポーッとした面はどう見たって怪しいや」
与太郎「顔は関係ないだろう。とにかく善を勧めないってのは大間違いなんだな」
熊「あたぼうよ。『善を勧めるのは遠回り』だあ?だいたい阿弥陀さまが、善を勧めていらっしゃるのに何言ってやんでえ。これ以上の近道があるもんか。このポンポコなす!」

とも書かれています。この部分も、ことごとく親鸞聖人の教えと正反対のことを教えています。

親鸞聖人は、『行文類』の中で、「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」と念仏と諸善を比較、対比されて教えられている中に、

頓漸対念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
超渉対念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
径迂対念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。
勧無勧対念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
付嘱不嘱対念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
選不選対念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。

と説かれています。

つまり、
阿弥陀仏は、念仏を選び取られ、諸善を選び捨てられた。
 釈尊は、念仏を付属し、諸善を付属されなかった。
 十方の諸仏は、念仏を勧められ、諸善を勧められなかった。
 そして、念仏は早くさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。

と教えられたのが親鸞聖人です。

「善のすすめ」といって、親鸞聖人の教えにことごとく違背することばかりを教えているのが親鸞会であることを知っていただきたいと思います。そして、親鸞聖人が仏教全体をどのように見られて、どのような生死出離の道を教えられているのかを知って、親鸞会のトリックにだまされないことを願います。

根拠のある話と根拠のない話ー「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」という主張について

冨田信さまより、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」、「自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために建てられたのが十九願である」という親鸞会の主張についてコメントを多数頂きました。コメントを引用しつつ、返事を致します。また、コメントを頂いた脱会者様、ありがとうございました。

[311] 三願転入は親鸞聖人の教えの根基

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信をうるを、一心をうるとはもうすなり。

このご文を観経に説かれている三心を翻して、大経に説かれる三信心をうるを一心をうる。と、ある方々は試訳されています。

「えてのちに」と「翻して」が合わないように私は思ったのですが、
親鸞聖人、浄土和讃に

定散諸機格別の 自力の三心ひるがえし 如来他力の信心に 通入せんとねがうべし

と書かれていますから、ある方々は「えてのちに」を「翻して」と現代語訳されたと思います。

至心発願欲生と 十方衆生を方便し 衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

至心回向欲生と 十方衆生を方便し 名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける

至心信楽欲生と 十方衆生をすすめてぞ 不思議の誓願あらわして 真実報土の因とする 

この五和讃は?
2013-05-04 10:50 冨田 信 URL 編集
(管理人注:五和讃→御和讃の誤記だと思います)


一番最初に申しあげておきますが、親鸞会は「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」と主張してますが、それを示されたお聖教上のお言葉を一切提示していないので、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」という主張には根拠がないと私は述べています。

このコメントに挙げられた3首の御和讃は、それぞれ願文に沿って19願、20願、18願の内容を説明されたもので、どこにも「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」を意味する文言はありません。よって、これらの御和讃は「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」の根拠にはなっていません。

それぞれの御和讃について簡単に触れておきますと、親鸞聖人は頭註に、

「十九(じゅうく)の願のこころ、諸行往生なり」
「二十の願のこころなり、自力の念仏を願じたまへり」
「本願のこころ、第十八の選択本願なり」


と書かれており、このお言葉に基づけば、「19願は、諸行往生を誓われた願」だということです。つまり、
「19願の善(定散二善)を勧める」=「諸行往生を勧める」
です。親鸞聖人が諸行往生を勧めておられないことは、ご存知だと思いますので、19願の善(定散二善)の勧めは親鸞聖人において存在しないこともご理解頂けると思います。

さらに、『浄土和讃』大経讃では、これらの御和讃の直後に、

安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり


とあり、浄土往生を願いながら他力の信心をえない19願、20願の人は、仏智不思議を疑う罪で化土にとどまることが述べられてあり、19願、20願にいる人を誡められています。

「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」の根拠になっていないどころか、19願の善(定散二善)のすすめもどこにもないことを理解して頂ければと思います。

[312] 三願転入の御文は当然ありますが
当然ありますが・・・といわれていますが、
「当然」といいつつ、三願転入の親鸞聖人のお言葉を他人事として読まれているのですか?
2013-05-04 11:05 冨田 信 URL 編集


元の記事の文章を部分的に読むのではなく、前後も読んで下さい。

高森会長は、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」といい、これを大前提として話を展開します。「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」に対応するお聖教上のお言葉は存在するのでしょうか?
三願転入の御文は当然ありますが、今問題にしているのは「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」ということを示すお言葉です。
真宗聖典をくまなく調べてみれば分かりますが、そんなお言葉はどこにも存在しません。
結局、高森会長は、「根拠のない話」を大前提にしているということです。それは「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではないのです。


問題にしているのは「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」ということを示す根拠であり、それが存在しないことを指摘していることがご理解頂けないのでしょうか?

なお、三願転入の御文では、

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。(化身土文類)

と、親鸞聖人は「七高僧の教化によって、19願を離れた」と仰っているのに、それに反して19願の善(定散二善)をすすめている親鸞会は、三願転入の御文もないがしろにしているということを指摘しておきます。

[313] 三願転入は親鸞聖人の教え
三願転入は阿弥陀仏が作られた他力回向と、他力に帰するまでの道のりです。

当ブログでは、特に「親鸞聖人の教えは他力回向の教え」であることを基軸にして

とありますが、すべての人が他力回向となるのは・・・疑問だらけです。

明確にしていただけたら幸いです。

ちなみに、すべての人とは地球上すべての人と思いますが。
2013-05-04 11:15 冨田 信 URL


何を明確にすればよいのか冨田さんの文章から読み取れませんでした。すれ違いがあるかもしれませんが、こういうことを聞かれているのではないかという想像でお答えします。

本願成就の南無阿弥陀仏の名号は、迷いの世界の衆生を招喚し続けています。親鸞聖人が、

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ
生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃


等と仰っている通りです。ここで、「よばうて」が喚びつづけてという意味です。ですから、その本願の名号を計らいを雑えずに聞くか否かで、往生の得否は定まります。

私が求めるよりも先に、弥陀の方から喚びづくめです。その「我にまかせよ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」と招喚されつつある本願の名号を計らいを雑えずに聞き受けることを、蓮如上人は、
「後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」
と勧めていかれました。

[314] 飛雲より
しかし、三願転入とはいいながら親鸞会で説いていることは19願のことだけです。飛雲より

この発言誰?
19願のことだけです。
と言い切っていますが・・・何聞いてるの?寝てたんじゃないの?
2013-05-04 11:22 冨田 信 URL 編集


冨田さんは、飛雲を読んでいるようですね。
飛雲の内容については、飛雲のコメント欄で質問するのが適切です。脱会者さんが、

2000畳の相当前の方で、長らく会長の話を聞いてきましたが、会長の話は19願だけでしたね。
18願はおまけのようなもの。20願に至っては19願を通過してからだから関係ないとの態度でしたけど。
キミたちは、19願の入り口にも立っていない、とも言ってましたが、何を聞いてきたのですかね。


とコメントを返されましたが、冨田さんはいかがですか?
私も会長が黒板に縦の線と横の線を書いた上で、黒板の隅を指して「この軌道にのるのが大変」「黒板外」「コンマ以下」と話したのを何度も聞いていますが。。。

[315] ・「自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために建てられたのが十九願である」と教えられた親鸞聖人のお言葉は?
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
観経一部にあらわして
定散諸機をすすめけり

汝はこれ凡夫なり。心想羸劣(しんそうるいれつ)にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。観経

心想羸劣とみぬかれ定善散善を勧められています。

何故でしょう?
釈迦は他力回向直球で勧められなかった訳は?

皆さん各々の定善散善やられてみたら各々が分かる事です。

定善散善いらないと言う人は、釈迦のみ教えを聞き誤っているのでしょう。
2013-05-04 11:59 冨田 信 URL


「イダイケ夫人に定散二善を勧められた」という親鸞会の見解が根本的に誤っております。『観経』を拝読すれば明らかなことですが、釈尊はイダイケに対して定散二善は勧められてはいません。このことは既に、「イダイケ夫人と定善」の記事に『観経』を引用して書きましたので参照して下さい。

イダイケ夫人が定善をやっていないし、やろうともしていないことは、『二十一世紀の浄土真宗を考える会』観無量寿経のこころ その1 定善に簡潔にまとめられているので、本記事ではそちらを引用します。

韋提希夫人は定善をやってもいませんし、やろうともしていません。

【理由】
1.韋提希夫人は釈尊に「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」とお願いして、その答えとして釈尊は定善を説かれました。
 つまり「私はお釈迦様のおかげで浄土を見ることができましが、未来の衆生はどうすれば見ることができるのでしょうか」と質問しているのですから、既に浄土を見た韋提希夫人にとって、定善をする必要はありません。
2.そもそも、韋提希夫人には定善はできません。
 日想観をやろうとしてできなかった韋提希夫人に水想観、地想観・・・と順番に易しくして導かれたと勘違いしている人がいますが、上に述べたように、定善十三観の中心は第九真身観です。
 日想観は雑想観とともに一番易しい方に入ります。
 もし韋提希夫人がやろうとしてできないために、他の定善をすすめられたとするならば、それはちょうど、4段の跳び箱を飛べない子供に、「では5段をやってみなさい」「そうかできないか、では6段をやってみなさい」「では7段」「8段」・・・と言う体育の先生のようなもので、いるはずがないのです。


また、冨田さんは『浄土和讃』を根拠に挙げていますが、この中の「定散諸機をすすめけり」は、定善の機には定善を、散善の機には散善を勧められたという意味で、五逆謗法の者に定散二善を勧められたのではありません

『観経』を拝読すれば分かることですが、どの機にどのような善が対応するのかは、

定善の機ー定善
上品上生・上品中生・上品下生ー行福(散善)
中品上生・中品中生ー戒福(散善)
中品下生ー世福(散善)


です。このことを親鸞聖人は、

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
観経一部にあらわして 定散諸機をすすめけり (浄土和讃)


と仰ったのです。下品上生・下品中生、そして五逆謗法の者は下品下生に相当しますが、『観経』にも、七高僧の教えにも、親鸞聖人の教えにも、下品に定散二善を勧められたという教説は存在しません。これについては脱会者さんがコメントにて根拠を多数挙げました。さらに他のお言葉には、

極悪深重の衆生は 他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ (『高僧和讃』源信讃


とあります。「他の方便」について、親鸞聖人は「余の善、余の仏・菩薩の方便にては生死出でがたしとなり」と左訓をつけられています。極悪深重の衆生、すなわち下品下生(=冨田さんがこだわっている五逆謗法の者)に対して、余の善に該当する定散二善の勧めはないのです。

以上、「自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために建てられたのが十九願である」についての冨田さんのコメントについて述べましたが、冨田さんの挙げた根拠はそのことを示す根拠にはなっておりません。そもそもイダイケ夫人にも、五逆謗法の者にも、定散二善を勧められていないのですから。

「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」
「自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために建てられたのが十九願である」
という主張は、「根拠のない話」です。

根拠のある話と根拠のない話ー「十方衆生は五逆謗法の者」という主張を押し通すためには『唯信鈔』のお言葉を否定するしかない親鸞会会員

冨田信様より、「弥陀が全人類を逆謗の一機と見抜かれた」という親鸞会の主張についてコメントを頂きました。

根拠は十八願

唯信抄は聖覚法印が書かれたもの

唯信抄文意は親鸞聖人がかかれたもの
唯信抄に引用されている経釈の要文を取り上げ、注釈を加えたもの

唯信抄文意を紐解き知らされたのは、唯信抄に「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」というお言葉には触れられていませんでした。

要文の意味は重要なお言葉と理解しました。
その重要なお言葉に「五逆をばつくらず」ということは入っていないと認識しました。

あくまで私が申し上げたかったのは、何度もいいますが、十八願が根拠と言う事です。
十八願の中に、五逆正法誹謗とあるではないですか。

2013-05-04 10:09 冨田 信 URL


十八願の中に「五逆正法誹謗」とあるからといって、それが「十方衆生=逆謗の一機」の根拠にはなりません。なぜならば、十八願の「五逆正法誹謗」を「十方衆生=逆謗の一機」と解釈されたお聖教上のお言葉は存在せず、「五逆をばつくらず」と仰った法然聖人、親鸞聖人、聖覚法印のお言葉に反するからです。

冨田さんにとっては、『唯信鈔』の「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」のお言葉が余程都合の悪いお言葉なのでしょう、頑張って否定しようとされているように見えます。上記のコメントの中にねじ曲げがあります。

唯信抄文意は親鸞聖人がかかれたもの
唯信抄に引用されている経釈の要文を取り上げ、注釈を加えたもの


という部分は基本的に正しいですが、

要文の意味は重要なお言葉と理解しました。
その重要なお言葉に「五逆をばつくらず」ということは入っていないと認識しました。


に文章がつながっていません。

親鸞聖人が『唯信鈔文意』で注釈を加えられたのは「唯信抄に引用されている経釈の要文」であり、聖覚法印が書かれた部分については基本的に注釈を加えられてはいません。

具体的にいうと、『唯信鈔』に引用されている法照禅師の『五会法事讃』や善導大師の『法事讃』などには詳細な解釈を施されています。一方、引用文以外の聖覚法印が書かれた文章そのものには基本的に注釈を加えられていません。「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」は、聖覚法印の文章ですから、「唯信抄に引用されている経釈の要文」ではなく、『唯信鈔文意』の中に注釈がないのは当然です。何とかして「五逆をばつくらず」を重要なお言葉ではないとしなければならない苦しさが見え見えです。

そもそも、親鸞聖人は『唯信鈔』を自ら書写されて同行の方に送り、お手紙の中では『唯信鈔』そのものの拝読を勧められてます。

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。(親鸞聖人御消息

よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべく候ふ。(親鸞聖人御消息

ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。(親鸞聖人御消息)


など、他にも書かれています。

また、親鸞聖人は十八願を『尊号尊像銘文』の中で一字一句ずつ解釈されていますが、そこでも、

この本願のやうは『唯信抄』によくよくみえたり。(尊号真像銘文)

と仰っています。親鸞聖人がいかに『唯信鈔』を重視されていたかがお分かり頂けると思います。

さらに、冨田さんは意図的に省かれたようようですが、親鸞聖人が自ら編纂された『西方指南抄』にも、

三宝の世にむまれて、五逆をつくらざるわれら、弥陀の名号をとなえむに、往生うたがふべからず。

と同じ意味のお言葉があることを根拠として私は提示しております。

「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)
「三宝の世にむまれて、五逆をつくらざるわれら、弥陀の名号をとなえむに、往生うたがふべからず。」(西方指南抄)


「十方衆生は五逆謗法の者」という主張は、「根拠のない話」であるとまだ理解できませんか?

Appendix

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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