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久しぶりに更新された親鸞会公式ホームページ

半年以上ぶりに親鸞会公式ホームページが更新されていました。
内容は、『顕正新聞』の論説等に掲載された記事と思われるものが2件と動画が1件です。

アップされた動画は、ハワイ大学名誉教授アルフレッド・ブルーム氏が『なぜ生きる』英語版を読んだ感想についてのものです。アルフレッド・ブルーム氏について知りたい方は、ウィキペディア日本語版英語版などを参照してください。

同氏は、動画の中で、
私が『なぜ生きる』英語版を読んでこの本を「素晴らしい」と思うのは
特定の団体の宣伝のために書かれたものではなく
純粋に親鸞聖人のみ教えが明らかにされているところです。

と語っています。

「特定の団体の宣伝のために書かれたものではない」ことを、同氏は「素晴らしい」と思ったと語っているのですが、親鸞会は、ホームページにその動画を掲載し、親鸞会という特定の団体の宣伝のために利用しているので、何とも言えない気持ちにさせられます。

また、同氏は「『なぜ生きる』が日本で何十万部売れている」ということを聞いたそうですが、それが「SK作戦」による虚構の数であると知ったらどう思うでしょうか?
『なぜ生きる』発刊当時、幹部会員だった人ならば、「SK作戦」についてご存知でしょうが、ご存知でない方は、
さよなら親鸞会『なぜ生きる』と虚構の60万
を読んでみてください。虚構の販売部数による宣伝行為であることを知ることができると思います。

『なぜ生きる2』を読む(11)ー「みづからの善根において信を生ずることあたはず」と親鸞会流「善の勧め」を完全否定されたのが釈尊、親鸞聖人

「善をしなければ、信仰は進みませんよ」と聞けば、「では、信仰が進めば救われるのですか?」という疑問が必然的に湧いてきます。それに対する親鸞会の公式見解は「進めば分かります」でした(弥陀の願心を伝える「善をしなければ信仰は進みませんよ」参照)。

親鸞会といえども、「善をすること」と「救われること」を結びつけてしまったら、浄土真宗ではなくなることを承知しているので、両者の間に「信仰」という言葉を置いて、その関係をぼやかして表現していました。

しかし、『なぜ生きる2』では、「善をすること」と「救われること」を結びつけて記述している場所が見られます。一例を挙げると、『なぜ生きる2』10章には、次のように書かれています。

 弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ。
 ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。


弥陀の十九願とは、善を実行させるための願であり、その目的は十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破ることだと、書かれています。自力の心を破られるとは、信心を獲ることに他なりませんから、ここでは、「善をすること」と「救われること」がハッキリと結びつけられて記述されており、浄土真宗・親鸞聖人のみ教えの破壊以外の何者でもありません。また、十九願で自力の心が破られるかのような表現も問題です。

さて、『なぜ生きる2』を読む(4)から(10)では、『化身土文類』で引かれている『大経』の胎化得失の文について取り上げました。今回は、その続きです。『化身土文類』では、『大経』の胎化得失の文に続いて、『大経』の異訳である『無量寿如来会』の胎化得失の文が引かれています。

『如来会』(下)にのたまはく、
「仏、弥勒に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。
この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。{乃至}阿逸多(弥勒)、なんぢ殊勝智のものを観ずるに、かれは広慧の力によるがゆゑに、かの蓮華のなかに化生することを受けて結跏趺座せん。なんぢ下劣の輩を観ずるに、{乃至} もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに因なくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}
仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、華胎のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要}

(現代語訳)
『如来会』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<もし人々が疑いの心を持ちながら功徳を積んで、この上なくすぐれた仏の智慧を願い求めるなら、自ら積む功徳にとらわれて他力の信を生じることができない。
このようなわけで、五百年の間宮殿の中にとどまるであろう。(中略)弥勒よ、そなたはすぐれた智慧のものを見たであろう。彼らは信心の広大な智慧のはたらきによりさとりの花の中に化生して結跏趺座しているのである。また、そなたは智慧のない劣ったものを見たであろう。(中略)彼らはさまざまな功徳を修めることができず、正しい因である信心を得ることもなく無量寿仏にお仕えしているのである。この人々は過去の世に仏の智慧を疑ったためにそうなっているのである>(中略)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<その通りである。疑いの心をもってさまざまな功徳を積み、この上なくすぐれた仏の智慧を願い求めるなら、 自ら積む功徳にとらわれて他力の信をおこすことができない。また、仏の名号を聞いても自力の信をおこすのであるから、浄土に生れても蓮の花の中に閉じこめられて外に出ることができない。その人々は花の中にいることを、花園の宮殿の中にいるかのように思っている>」


『大経』と同じく、『如来会』でも、仏智を疑う者は、五百年の間宮殿の中にとどまる、すなわち胎生(化土往生)であることが教えられています。

そして、『大経』との違いに着目するならば、2度書かれている「みづからの善根において信を生ずることあたはず」というお言葉が目に飛び込んでくるでしょう。ここで、親鸞聖人は、自らが積む善根では他力の信心を生じることができないことを、釈尊のお言葉により、明確にされています。すなわち、「善をすること」と「救われること」を結びつけて記述する『なぜ生きる2』の完全否定であり、親鸞会流の善のすすめの完全否定です。

なお、「仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに」の信心は、後に「かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず」と書かれていることから、自力の信心であることに注意して下さい。

みづからの善根において信を生ずることあたはず」とハッキリ釈尊、親鸞聖人が教えられていても、それでもなお高森会長についていくのでしょうか?

善の勧めを強調するあまり、本願を毀滅している親鸞会

親鸞会に入り、その指導に従うことで生じる大きな問題の一つに、阿弥陀仏の本願を謗り、うち滅ぼすようになってしまうということがあります。「平生業成」の教えを聞き、今、弥陀の本願に救われたいと思って、親鸞会に入会したはずですが、実際に入会してみると肝心の本願は聞けず、知らず知らずのうちに本願をうち滅ぼすようになってしまっているのは、誠に残念なことであり、また、恐ろしいことでもあります。

その恐ろしさを知っていただくために、どのように本願を謗ってしまっているのか、具体例を挙げて示したいと思います。
以下は、過去の『顕真』の記事がネット上にアップされたもので、「《三願転入を説き『善をしなければ、信仰は進みませんよ』といえば、みな『善が間に合う』と聞く。そんな間違いやすいことを話してはならないのでは》という質問にどう答えるのか」という支部会合での講師と会員のやりとりの結論です。
【講師】
「非難者は結局、善をしたくないんでしょう。
 楽な近道を求めているのです。
 “弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。
 方便なんかいらん。
 善の勧めなんかいらん。
 弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ
”と。

 方便からしか真実には入れないのに、自分は方便を通らずに18願へ転入できると、
 うぬぼれている。

 自分の姿が全くかっていない。
 弥陀の御心(三願転入)も、分かっていないのです。
 善の勧めを否定する腹底は、そこにある。
 決して惑わされてはいけません。
 自分に都合のいい聞き方しかしていないから、いつまでたっても、真実の救いには
 値(あ)えないのです。
 救われたといっていても、自分でつくった化城(自力の信心)ばかり。
 そして結局、仏縁が離れていくのです」

弥陀の願心を伝える「善をしなければ信仰は進みませんよ」より引用;太字は原文のまま、下線は私が附した)

ここで、下線部の
 “弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。
 方便なんかいらん。
 善の勧めなんかいらん。
 弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ”

は、親鸞会の「善の勧め」を批判する者が主張していることとして講師が発言したものですが、これは、阿弥陀仏の十八願の内容そのものであり、どこも間違っていません。

前回の記事でも、少し触れましたが、善導大師は、『散善義』の二河白道の譬えで、十八願意を
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
と明らかにされました。そして、親鸞聖人は、その「ただちに(直ちに)」を、『愚禿鈔』で、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
と解釈されています。

ここで、この善導大師、親鸞聖人のお言葉と、上の講師の発言の中の下線部とを比較してみましょう。

まず、阿弥陀仏は、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ」と喚びづくめなのですから、「弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。」と表現することには何の問題もありません。「ただちに来れ」ですから、今すぐに「18願に飛び込め」ということになります。

次に、「直の言は、回に対し迂に対するなり」とは、「直」という言葉は、「回」や「迂」という言葉に対するということです。そして、「回」や「迂」とは、『信文類』に、
しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。
(現代語訳)
ところで、菩提心には二種類がある。一つには竪すなわち自力の菩提心、二つには横すなわち他力の菩提心である。また、竪の中に二種がある。一つには竪超、二つには竪出である。この竪超と竪出は、権教・実教、顕教・密教、大乗・小乗の教えに説かれている。これらは、長い間かかって遠回りをしてさとりを開く菩提心であり、自力の金剛心であり、菩薩がおこす心である。
と説かれている竪超と竪出、すなわち聖道門のことや、同じく『信文類』に、
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
(現代語訳)
また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。
と説かれている横出、すなわち要門(十九願)のことを意味していました。すなわち、「直」という言葉は、さとりを開くまで回り道をしなければならない聖道門や要門の教えに対していて、阿弥陀仏の第十八願の法義(横超)は速やかにさとりを開く教えであるということを表していることになります。

さらに、「直」という言葉には、「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり」という意味もあることが示されています。ここの「方便」は仮門と続いていることから、権仮方便のことで、聖道門や要門のことを指しています。そのような方便を「捨てて」ですから、言葉を換えれば、「方便なんかいらん」といってもよいでしょう。そして、聖道門や要門は、善を修め、さとりや往生を求める教えですから、「方便仮門を捨てて」は、「善の勧めなんかいらん」とも言えます。また、「如来大願の他力に帰する」とは、本願招喚の勅命(本願の仰せ)に信順することですから、「弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信ずる」ことに相当します。

このように、「善の勧め」を批判する者が主張していることとして講師が発言したことは、阿弥陀仏の第十八願(本願)に他ならないのです。講師は、そのような「善の勧め」を批判する者の主張を非難しているのですから、知らず知らずのうちに、阿弥陀仏の本願を非難していることになってしまっているのです。そして、本願を非難して、高森会長の説く「三願転入の教え」に固執してしまっているのです。

善導大師は、阿弥陀仏の本願(念仏の教え)を毀滅する者について、
かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。(法事讃
(現代語訳)
このような生れながらの盲人のような闡提の輩は、この念仏の教えを謗って永く沈み、大地微塵劫より長い間をすぎても、なお三塗の迷いの身を離れることができない。
と教えられました。その善導大師の教えを、親鸞聖人は
本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり
大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり(高僧和讃

(現代語訳)
本願を討ち滅ぼそうとする人は、 ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、 長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と明らかにされています。ここで、「毀滅」の左訓には、「そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり」とあります。いま、ここで、私が救われる本願を非難し、自らが主張する根拠なき「三願転入の教え」に執着する高森会長は、まさに「本願毀滅のともがら」といえるでしょう。また、「本願毀滅」の集大成が『なぜ生きる2』という本であるともいえます。そして、その高森会長の指導に従い、「三願転入の教え」、「善の勧め」を布教している人も、意図せずとも、本願をうち滅ぼしていることになってしまいます。

高森会長が「善の勧め」を放棄するとはとても思えませんが、その指導を仰いでいる人は、本願毀滅の恐ろしさを知り、せめて高森会長、親鸞会から離れて頂きたいと念じます。

『なぜ生きる2』を読む(10)-十九願、二十願は回り道と教えられたのが親鸞聖人

日が開いてしまいましたが、『なぜ生きる2』を読む(9)の続きです。

『なぜ生きる2』を読む(4)で、『化身土文類』に引かれている『大経』の胎化得失の文を取り上げ、「(3)十九願、二十願の者も、化土にて、仏智疑惑の罪を知り、その罪を改め仏智不思議を信ずれば、報土往生を遂げること」という点を説明し、『なぜ生きる2』の誤りを指摘すると書きました。今回は、それについてです。

『大経』の胎化得失の文では、
仏、弥勒に告げたまはく、〈たとへば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あり。種々に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなはちかの獄のうちに内れて、繋ぐに金鎖をもつてせん〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈このもろもろの衆生、またまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。{乃至}もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離るることを求めん。{乃至}弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす〉」と。
(現代語訳)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。<たとえば転輪聖王が七宝でできた牢獄を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、さまざまな旗がかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その牢獄の中に入れられて黄金の鎖でつながれる>(中略)釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿に生れるのである。(中略)これらのものは、仏の智慧を疑った罪を知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願う。(中略)弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである>
と教えられていました。

ここで、化土に往生した者は、七宝の牢獄に閉じ込められたような状態であり、大利を失う者であるあると、釈尊は説かれています。そして、そのような者は、仏智を疑った罪を知り、深く自分のあやまちを悔い、化土を離れることを求めるのならば、真実報土へ化生することができるのです。

このように、化土とは、自力諸善、自力念仏に執着する十九願、二十願の行者に、仏智疑惑の罪を知らせ、真実報土へと導くための阿弥陀仏の随他意の方便でした。ですから、化土のことを、方便化身の浄土などと言われます。この方便は、相手の機に応じて用いられる方便ですから、「権仮方便」です。『なぜ生きる2』を読む(8)で触れた、安楽仏国(真の報土)を「無上の方便」と言われたときの方便(善巧方便・随自意の法門)とは、意味が異なりますので注意してください。

つまり、十九願、二十願の行者は、化土を経なければ、報土に往生することはできません。
一方、十八願の行者は、『信文類』に「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と教えられているように、この世の命が終わると報土に往生し、仏覚を成就します。

すなわち、仏のさとりを開くのは、十九願(二十願)の行者よりも、十八願の行者の方が速く、十九願(二十願)は回り道ということになります。このことについては、親鸞聖人はいろいろなところで教えられています。

しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、(中略)径迂対捷遅対。(行文類
(現代語訳)
しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。 (中略)
念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。 念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。


横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。 (信文類
(現代語訳)
横超というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である。また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。本願によって成就された清らかな報土は、三輩・九品の別を問わない。往生すると同時に、速やかにこの上ないさとりを開くから横超というのである。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。 (化身土文類

(現代語訳)
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
横超とは、阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れることであり、これを横超他力という。これは、専修の中の専修であり、頓教の中の頓教であり、真実の中の真実であり、一乗の中の真の一乗である。これが真宗である。このことは、「行文類」においてすでに明らかにした。


このように、諸善の法(十九願)、横出(十九願、二十願)は、回り道と一貫して教えられています。

さらに、親鸞聖人は、二河白道の譬えで説かれている弥陀の招喚(十八願意)の「汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん」の「直ちに」について、『愚禿鈔』で、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
と示されています。
「直」という言葉は、「回」、「迂」に対しているということは、迂回の善、漸教である横出(十九願、二十願)に対しているということです。
さらに、「直」という言葉は、横出のような方便仮門を捨てよ、如来の大願他力(十八願)に帰せよと言われた言葉であるとも教えられています。すなわち、本願(十八願)を説くとは、このような回り道である十九願、二十願を捨てよと教えることに他なりません。換言すれば、本願(十八願)を説き勧めるということは、十九願などの方便仮門は捨てよと勧めることになるのです。

さて、『なぜ生きる2』11章225頁には、
三願転入の道程は、決して特別の人だけの道でもなければ、回り道でもない。
と書かれていますが、これが大間違いなことは、今回の記事で理解していただけると思います。十九願、二十願は回り道なのですから、十九願→二十願→十八願という道程を説くことは、明らかに回り道なのです。

同様に、親鸞会発行の『顕正新聞』に、
熊「あたぼうよ。『善を勧めるのは遠回り』だあ?だいたい阿弥陀さまが、善を勧めていらっしゃるのに何言ってやんでえ。これ以上の近道があるもんか。このポンポコなす!」
演目「善の勧め」より引用)
と書かれていたこともありました。親鸞会では、「善を勧めるのは遠回り」、言い換えれば「十九願は遠回り」と説くことを批判しているのです。この点でも、「浄土真宗」、「親鸞会」と名乗りながら、親鸞聖人と真逆のことを教え、さらには宗祖親鸞聖人を誹謗しているのです。

そういえば、親鸞会発行の『教学聖典(4)』には、
問(19)
「私の信心はこうだ」と言うのは悪い、と言う人を破邪するには、どう言えばよいか。
答(19)
◎親鸞聖人が悪くなる。
○弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり。
○親鸞が信心におきてはかくの如し。(歎異鈔)

という問答がありました。それを真似して書くならば、

「十九願を回り道」と言うのは悪い、と言う人を破邪するには、どう言えばよいか。

◎親鸞聖人が悪くなる。
○径迂対、捷遅対。(教行信証行巻)
○また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(教行信証信巻)

となります。

親鸞聖人は、回り道である十九願を捨てよと一貫して教えられました。そして、速やかにさとりを開く道である十八願一つを教え進められたのでした。皆様には、親鸞聖人の御心に反して、回り道を進めているのが、『なぜ生きる2』の著者である高森会長であるということをよくよく知って頂きたいと思います。

【再掲】『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会

昨日の記事では、親鸞会講師部員が開催している講座について取り上げました。

親鸞会の会員さんや親鸞会関係の行事に参加している未会員さんの中には、仏教については、親鸞会関係の本しか読んだことがないという人もいると思います。そこで、親鸞会の教えしか知らない人でも、読んでもあまり違和感のない仏教書を一つ紹介したいと思います。約4年前の記事でも取り上げましたが、本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』です。

親鸞会講師部員が開催している講座に参加している人や現役親鸞会会員の方に、『なぜ生きる』や親鸞会発行の書籍以外の仏教書を読むきっかけにしてもらいたいと思い、以下に過去の記事の再掲します。この記事を通して、「人生の目的、なぜ生きるを教えられたのが親鸞聖人」と説く人は、親鸞会以外にもいることを知って頂きたいと思います。

(以下、2011年5月3日の記事の再掲)

親鸞会批判の真実の中に掲載されている親鸞会と本願寺10の相違点の1番に、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
本願寺 いない
親鸞会 いる


とあります。果たして、これは本当でしょうか?
本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』を見てみましょう。


生死出づべき道 私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です。

何のために生まれて 何のために生きているのか

 何のために 生まれて 何をして 生きるのか
 答えられないなんて そんなのは いやだ! (作詞やなせたかし 作曲三木たかし)

 これは、「アンパンマンのマーチ」の一番の歌詞です。アンパンマンというのは、顔がアンパンのアニメのキャラクターで、小さな子ども達には大人気です。そんな子ども向けのアニメの主題歌の中で、こんな難しいことが歌われているのです。
 あなたは、「何のために生まれて、何をして生きるのか」答えられますか? これは、たいへん難しい問題で、そう簡単に答えられる問いではありません。
 ある人は、この問いに対して、「その答えを探すために生きるのです。」と言われました。確かにその通りでしょう。しかし、親鸞聖人は、この問いに一つの答えを出されました。
(106-107頁より引用)


上記のように、『私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です』とハッキリ書かれています。これだけでも、親鸞会の主張する、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

本願寺 いない


が事実と異なることが分かります。

では、「生きる意味と方向」について、この本ではどのように書かれているのでしょうか?
次にその部分を引用します。

生きる意味と方向
 浄土真宗の救いとは、金魚すくいみたいに、ひょいとすくってもらって、いい世界に連れて行ってもらうようなものではありません。また、病気を治してもらったり、さまざまな自己の願いが叶ったりすることでもありません。
 浄土真宗の救いとは、生きる意味と方向が定まることです。自己中心の心から離れられず、迷いの人生を生きている私に、智慧と慈悲の世界が与えられることによって、人生のあらゆることに尊い意味を見いだすことができるのです。そして、浄土という真実の世界に向かって生きることが、本当の人間としての生きる道であると、生きる方向が定まるのです。
 このように、私中心の生き方から仏中心の生き方へと転換され、念仏という生きる依りどころが定まった時、どんな苦難をも乗り超える智慧と力が与えられるのです。

往生浄土
 ただし、浄土真宗の究極的な救いは、この世のいのちが終わると同時に、浄土に往生し成仏する(さとりを開く)ことです。「往生」とは、「困ること、行き詰まること」ではなく、文字通り、「往き生まれる」ことです。「浄土」とは、「煩悩の汚れの無い清らかな世界・さとりの世界」のことです。つまり、「往生浄土」とは「浄土に往き生まれる」ことで、それは行き詰まることではなく、さとりという新しい世界が開けてくることなのです。

現生正定聚
 しかし、このことは、決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われるのです。それを「現生正定聚」という言葉で表わしています。「現生」とは、この世、「正定聚」とは、正しく仏になることが定まったなかまという意味です。
 つまり、信心をいただいた時、念仏という生きる依りどころが定まり、浄土という真実の世界に導かれながら、浄土という真実の世界に向かって生きるという生き方が与えられるのです。それを救いと言うのです。
(194-195頁より引用)


いかがでしょうか?

親鸞会在籍時、「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏と死後の救いばかりを説いていて、現在の救いを説かない」と聞いたことがあります。実際に、親鸞会と本願寺10の相違点の5番目、6番目に

助かるのはいつか
本願寺 死なねば助からぬ
親鸞会 生きている時に助かる

救われたらどうなるのか
本願寺 この世で救われたということは、ありえない
親鸞会 絶対の幸福になる


とあります。ところが、上の引用部分では、「決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」と「現生正定聚」について書かれています。つまり、親鸞会のこれらの主張も、本願寺の主張を歪曲したものであることが分かります。

10の相違点の7番目も酷い歪曲です。

本願寺 念仏さえ称えておればいい
親鸞会 真実の信心ただ一つで助かる


上の引用部分に「信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」とありました。『高校生からの仏教入門』では、別の部分でも「信心正因称名報恩」について教えられています。

本願寺には、親鸞会とは比べ物にならないくらい多くの布教使が在籍しています。その中には親鸞会が「本願寺は●●だ」と言っているようなことを説く人もあるのかもしれませんが、親鸞聖人が教えられたことを正しく説く人もいることは、本を手に取って読んでみたり、法話を聞いてみたりすれば分かることです。それらをひとまとめにして、「本願寺は●●」とレッテルを貼っているのは、正しく教えを説く人がいることを会員さんに知らせないための手段だと感じます。他で教えを聞くことは許さないという縄張り根性の表れでしょう。

自分自身のことを振り返ってみると、親鸞会から一方的に「本願寺は●●」というプロパガンダを聞かされて、「本願寺とは何てひどいことを教えているところなのだろう」と思い込まされていました。しかし、事実は違いました。自分で書店に行き、本願寺出版の書籍や本願寺派に属する布教使の書いた本を読んでみると、親鸞聖人の教えをそのまま伝えていることが分かりました。一方、親鸞会は、親鸞聖人が書かれたものを断章し、自分に都合良く解釈しているということもよく分かりました。この親鸞会教義の誤りについては、当ブログはじめ、多くのブログが指摘していることです


さて、話を「人生の目的」というところに戻しましょう。親鸞会は、親鸞聖人の明らかにされた人生の目的を説いていると主張していますが、親鸞会の人生の目的の説き方はおかしいです。「ここが信仰の決勝点、ここが卒業、完成」と、未来に向かって、これから一生涯かけて求めなければならないものとして教えます。これが、親鸞聖人の教えの一枚看板と自分たちがいっている「平生業成」に、実は真っ向から反しているのです。「平生」とは「いま」のことと言っていながら、「ここまで進め」では、達成するのはどうしても未来です。

「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」とつねに喚び続けている名号をそのまま疑いなく聞き受けることが信心です。そのとき、往生成仏が定まります。私が求めるよりも先に与えられている名号願力という大前提のもとに「平生業成」が成り立つのです。

「人生の目的」という言葉を使うならば、これから未来に向かって使うのではなく、生まれたときから現在只今までのことなのです。
「多生の目的」という言葉も同様です。これから未来に向かって、多生かかって求めていくという意味に使うのではありません。生死を繰り返してきた果てしない過去から今日までのことです。

南無阿弥陀仏をそのまま聞き受けたとき、生きる目的も知らず死に行く先も知らなかった人生が、浄土に向かって生きる人生であると生きる方角が定まるのです。南無阿弥陀仏を聞くのは、未来のことでもなく、過去のことでもなく、現在只今のことです。「生きる意味と方向」が定まるのは、現在只今であって、未来に向かってその達成を求めるのではないのです。つねに喚びかけ続けられている本願の仰せを、「いま」、聞くか聞かないかだけです。

親鸞会は人生の目的を説いていると言っていても、そこで説かれている目的を達成することは不可能でしょう。信心獲得が人生の目的といいながら、信心の理解がまるで間違っているというのが理由の一つ。他力回向の親鸞聖人の教えが、自力の教えになってしまっているのが理由の二つ目。私の側のことばかりが説かれ、助けて下さる阿弥陀仏のことが完全に抜けてしまっている話を聞かされているということが理由の三点目です。

親鸞会の会員さんが勧められていることは、いつまでたっても決勝点に辿り着くことのない活動だけであるということに気が付いてもらいたいです。死ぬまで求道の「光に向かって進む教え」が親鸞会教義なのです。いつまでたっても光に辿り着くことはありません。

平生業成の教えが説かれているか?
本願寺(全ての布教使がどうかは分からないが) いる
親鸞会 いない

というのが実態ではないでしょうか?(親鸞会でも言葉だけなら説かれていますが、「実態は」ということです)

今日紹介した『高校生からの仏教入門』は、当ブログでこれまで引用してきた本に比べて、親鸞会の会員さんにも読みやすい本だと感じますので、関心をもたれた方は読んでみるのがよいと思います。

※なお、今回、この記事を再掲載したのは、掲載から4年程経過した今でも、同記事の拍手ボタンを何度も押して下された方がいたというのも一つの理由です。拍手ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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